大阪なおみのUSオープン勝利のブーイングでトランプ政権でアメリカ人は「トランプ主義」に洗脳されている様を見た、一方で日本は安倍政権の長期化で国民の大半が「安倍化」
既に報道で伝えられているようにUSオープンで大阪なおみがセレナ・ウイリアムズを下し日本勢としては初めての快挙だったが、本来は歓喜の嵐につつまれるはずが、大ブーイングで台無しになってしまった。
そのブーイングは審判の判断にたてつき、ペナルテイーポイントを課した審判に「泥棒!」と叫んだりラケットを叩き壊したりしたウイリアムズの行為に対してとニューヨークタイムズは報じていたが、(人種差別ではなく女性差別だとの話)
■NYタイムズ「ファンと選手がUSオープン決勝でみたのは女性差別ではなかったか」
だがそれに違和感を感じたのはUSオープンの勝利者に大阪なおみが紹介された時にひときわブーイングが激しくなった点だ。もしブーイングがウイリアムズの行為に対してなら大阪の名前が紹介されている時にあれほどのブーイングが起きるはずがない
またウイリアムズのコーチもESPNのインタビューで「事前警告」もあったのでペナルテイーは公正なものだったと認めている。
必然的にこれはアメリカでも大きな問題となっており、USオープンの決勝のラモス審判に対する批判が沸き起こる一方で、やはり「観衆が期待した結末とは違う結果」をもたらした大阪へのブーイングについても議論が沸き起こった。そしてその観衆の気持ちを誰よりも受け止めたのは大阪選手自身だ。ニューヨークポストは幼いころからUSオープンの舞台やウイリアムスにあこがれた大阪が夢を達成した時点でのこの恥辱は実に残念で恥ずかしいこととしかいいようがない、と述べている
アメリカのメデイアは総じて今回のできごとをみて、ヘイトスピーチや人種差別を事実上推奨する「トランプ主義」が知らない間に一般市民の間に浸透して行っていることに対する警鐘をならしている。
アメリカは人種のるつぼだが、人種問題はまだまだ根が深い。トランプ政権が発足して二年近くたつが、人種偏見を助長する「トランプ主義」は相当アメリカ社会に悪影響を与えているのは間違いない
実は同じようなことが日本にもいえるのではないかと思う。安倍政権になってから一向にやむ気配のないヘイトスピーチ、本来ならとっくに政権がふっとんでもおかしくない森友、加計、の公文書偽造問題、重要文書の隠蔽、そしてすでに明らかになっている国会での多くの嘘、
これらに対し日本人はある意味「免疫」ができてしまい、これだけ酷い政権でもまるで洗脳されたように「民主党政権よりマシ」などと思い込んでいる。民主党政権は確かに多くの失敗を犯したが、公文書改竄の犯罪行為や国会で嘘をつくなんてことはしなかっただけでも「安倍政権よりマシ」なはずだが、それはあえて名指しさせてもらうが、時事通信、読売、産経系のメデイアの「印象操作」によって洗脳され人たちには理解できないらしい
ひとことでいえば安倍政権が6年の長きにわたって知らないうちに日本国民の大半が「安陪化」してしまったことだ。アメリカ国民のが知らないうちに「トランプ化」しているように、実際「公文書偽造のどこが悪いの?」などという信じられないことを書いているのを見たことがある。それをよりによって財務大臣が記者会見で同じことを云ってしまう体たらく。それに対しても驚くほど批判が沸き起こらない昨今の日本
アメリカの場合、救いはアメリカに有名人、メデイアはほぼそろって「反トランプ」になっているためにニューヨークタイムスも一昨日のUSオープンにこういった問題点を指摘できている。それに引き換え日本のメデイアは殆ど安倍政権の広報紙化され、情報が完全に官邸にコントロールされている状態(既に大本営発表と同じ状態)になっていることを考えると日本の現状の方が遙かに深刻かもしれない
繰り返すが公文書改竄という海外なら終身刑ものの犯罪、そして偽証、国会での答弁の嘘、これだけのことを行っていながら政治家の誰一人責任をとっていないし、いまだに国民の半数近くが支持しているという信じられない事態。そしてそのことに「免疫」ができてしまい、あたかもそれらに対して「何が問題なのか?」といわんばかりの日本の保守層。
明らかに狂っている。
日本人のハーフである大阪なおみのブーイングに憤慨する日本人も「トランプ主義」に洗脳されているアメリカ人を笑えない。「安陪化」した日本国民の約半数の方がよほど深刻である
災害大国日本 災害続きなのに政府与党はなぜ補正予算のために国会収集しない?
昨日未明北海道の大地震、被害が少しずつ明らかになりつつありますが、まだ全容を把握するには程遠い状況のようです。北海道在住に知り合いが少なくないですがどうやら全員無事のようなのでほっとしました。
北海道の皆さんには心からお見舞い申し上げます。
それにしても今年は災害が本当に多いです。特に6月以降だけでこれだけあります
1.大阪府北部地震 2018年6月18日 7時58分頃 M6.1 震度6弱
2.西日本豪雨被害 2018年7月3日―9日 台風7号と梅雨前線による大雨
3.台風21号関西被害 2018年9月4日 台風21号
4.北海道胆振東部地震 2018年9月6日 3時8分頃 M6.7 震度7
上記2の西日本豪雨被害は死者数が200人を超える大災害となりましたし、3の台風21号は関西のハブ空港の関空を使用不能にしてしまいました。過去の中でも最大級の台風だったそうです
そして昨日の北海道地震 自然の力のすさまじさを教えてくれます
こういう災害が起きた場合は災害による死傷者は勿論ですが、やはりライフラインへの影響がもっとも大きな問題になり、特に昨日の北海道地震は北海道全域が停電するという異常事態が発生しました。
これは北海道電力の供給体制が影響しているようで、最大の苫東厚真発電所がストップしたために電力のバランスがくずれ、所謂ブラックアウト現象が起きたためといわれますが、要はハブの役割を果たす苫東厚真発電所が震源地の近くにあり損傷を受けたことが大きな原因だそうです。
私も東日本大震災直後の計画停電の時に経験ありますが、本当に現代人の生活は電気がないとどうしようもない、ということを経験していますので発生から一日半たってもまだ電力の供給を受けていないというのは生活の面でも、そして何よりも経済活動に大きなダメージを受けることになるでしょう。苫東厚真発電所の完全修復には1週間はかかる、との話で「復旧一週間」ということらしいですが、とにかく電気がないと何もできない現代生活ですので一刻も早く復旧することを願いたいものです
昨日の地震で電源喪失寸前だった北海道・泊原発の記憶に新しいですが、福島原発の大惨事を見るにつけてもやはり地震多発国に原発があるのは危険極まりないことであると改めて思います。稼働していない原発とはいえ冷却装置がストップしてしまえばメルトダウンを誘発してしまい福島第一、第二の二の舞になってしまいます。今回は辛うじてそういう自体は防げたようですが..
ちなみに専門家の話では日本の活断層はこんなにあるそうです。活断層は将来地震を引き起こす可能性の高い陸のプレートのひずみのことをいいます。
これだけ台風、そして地震の被害に苛まれる日本 やはり次のことを考えてしまいます。23年前の阪神大震災や7年前の東日本大震災もこの活断層が原因といわれています
これをみると日本でどこで地震が起きても不思議はない、という感じがします。原発が活断層の近くにあるのも少なくないといいます。それを考えると恐ろしいです
2.これだけ災害続きなのに政府与党は何をやっているのか?
今自民党の総裁選挙が開始されようとしていますが、正直そんなことをやっている場合でしょうか? 大阪の地震と台風被害、西日本豪雨、そしてこの北海道胆振東部地震
これはもう災害対策のために早急に補正予算を組まないといけない場合だと思いますが、先日立憲民主党が障害者雇用 水増し問題の審議のため閉会中審査を要求したものの拒否、さらにこれで臨時国会開催拒否するようなら政府自民党、与党は全く国民のことを考えていないことになります。
まずは補正予算、自民党の総裁選挙はその後でもいいでしょう。憲法改正云々と同じでそんなに急ぐべきことではないはずだと思います。
芸能人の炎上にみるソーシャルネットの使い方の誤解ーtwitterとFacebookは全く違うので使い分けるべき
私は正直言うとかなりソーシャルネットに入り込んでいる。
とりわけFacebookは音楽やクリエイターのネットワーク作りに(たぶん)熱心な方で今や参加者3380人(今日現在)の参加者を擁するグループの管理人もしている。
しかしそんな私もFacebookとtwitter両方は使っているものの、両者の使い方の違いについてあまり考えてこなかった。しかし最近になって自分はFacebookはそこそこ使いこなしているものの(勿論「達人」というレベルまでは遠く及ばないが..) twitterの方は使いこなしているとは言い難い、というのは正直なところ
フォロワー数はたいしたことないし、その関係もあって情報の拡散能力もない。今までは殆どブログ更新やイベント関係の告知のみにとどまっていた。最近になってフォロワーを増やすためのリツイートの仕方とか、ハッシュタグを有効に使うとかして、twitterの本質が少し見えてきたような気がしている。
結論からいうとFacebookとtwitterは同じソーシャルネットでも全く性質を異にしたもの、全く別物といってもいいと思う。
多少異論がある人もいるだろうが大まかに分けるとこんな感じではないか、と思うのだ
基本的性質 | ブログ的な記事をタイムラインに投稿 他「グループ」というコミュニテイやWebページの役割を持つFacebookページがある |
最大140文字をタイムラインに投稿。 |
情報の波及先 | 1アカウントでFB「友人」最大で5000人、コミュニテイグループは無制限だがだいたい数千人、多くて数万人 | フォロー数は無制限。 |
特質 | 基本プライベート、よく知っている人、リアルで会った人中心につながる。内輪の話しも多い 情報を友人のみとか限られた人に対してのみに制限することが可能である。、 |
アカウントを非公開にしない限り基本情報全ての情報は公開 |
拡散能力 | 基本FB友人かコミュニテイグループ内のため限られる | ハッシュタグ、リツイート等で場合によっては爆発的な拡散力をもつ場合がある |
ビジネスのタイプ | B to B 。同じ業界、業種でのビジネストークがしやすい | B to C 不特定多数に宣伝や告知をしやすい |
以上やや乱暴かもしれないがおおまかな両者の違いをあげるとこんな感じだ。尚、Lineは友達同士の連絡に使うことが主であまり仕事上の告知や宣伝をするには不向きだと考えるのでここでは割愛する
さて、ここでおおまかに友達やビジネスで近い関係等の情報交換に向いているのがFacebook 一般の不特定多数に情報を流すのに向いているのがTwitterだ
Facebookはデフォルトでは投稿した情報は「全体に公開」になっているが私は基本は「友人のみに公開」にしている。告知、拡散したい内容のみ「全体に公開」にしているが大多数は「友人のみに公開」に制限している。そしてそれがfacebookの一番正しい使い方だと私は考える。
ところがどうもそこら辺が日本では理解されていないようだ。一部のIT系の本でFacebookの友人数をすぐに5000人にするべきだ、とか全ての情報を公開すべきだ、などという無責任な情報を流している本があるようだが、それは大きな間違いでそういう主張をしているIT系の本は寧ろ有害、といってもいいので即廃棄することをおすすめする。
情報を「友人のみに公開」することによって他人のアカウントに炎上をしかけたり、難くせをつけて叩いたりする無関係な輩を排除することができる。
どうも芸能人のソーシャルネットの使い方を見ていてそこの部分を理解していない人が多いように思う。
記憶に新しい「石田ゆり子」の炎上事件
wezz-y.comInstagramはFacebookが買収した写真共有サイトだが、問題となったのは愛猫・愛犬の飼い方に対する他愛もない記事である。こういうプライベートの話は本来友人、ファン等石田ゆり子を応援する人たちのみに公開すべき情報だ
それがInstagramを「非公開」設定ではなく「全公開」にしたばかりに石田ゆり子のファンでもなんでもない、ただ芸能人のアカウントを荒らし、誹謗中傷して叩くことにあけくれるネットのヒマ人に荒らされたのである。
Instagram「非公開」とはフォロワー限定で写真、情報が行くことである。これはFacebookも同じ。芸能人にはファンクラブもあるのだから基本そういう設定にすべきだ。
ファンとしては好きな芸能人のプライベートを覗くことができるソーシャルネットは楽しいものだが、それに難くせをつけて叩いて炎上させようと手ぐすねをひいているアホは残念ながらネットでは少なくない。
普通こういう記事は事務所が一定の内容を管理しているものだが、どうもソーシャルネットの情報の「公開」「非公開」の使い方を分かっているとは思えない事務所が多い気がする。
勿論炎上をしかける糞ユーザーをブロックすることもできる。
私はソーシャルネットはネットの中でも極めて便利で有効なツールだとみている。だが車も便利だが運転の仕方を間違えれば人を殺す凶器になるように、ソーシャルネットも使い方を間違えるとアーチストのイメージに悪影響を与えかねないのである
西郷どんー倒幕の流れと幕府衰退を決定的にした薩長同盟
周知のとおり幕末の流れを大きく変えたできごとの1つ
まあ今回は薩摩の西郷吉之助が主人公なため、かなり西郷が薩長同盟をあたかも言い出したかのような描き方になっていましたがこれは勿論史実ではありません。下関会談は実際には西郷が拒否してお流れになったわけですし、小松帯刀での会談も難航を極めたと記録されています。これは一般論として桂が難色を示した後に龍馬が西郷に働きかけ、妥協を引き出した点が揚げられています(勿論異説を唱える人もいます)
これによって最新の武器が喉から手が出るほど欲しかった長州とご存じシラス台地の影響でコメが取れない薩摩、両者の弱いところを補完すること犬猿の仲だった薩長を結びつけたことは倒幕の方向に決定的にベクトルを動かしたのは間違いありません
特に軍事面で長崎のグラバー商会から薩摩名義で購入した坂本龍馬率いる亀山社中から長州にミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺が納入されました。
とくにドラマでも描かれていたミニエー銃は当時最新鋭のもので弾丸が充分な回転を持ち、飛距離と命中精度、そして破壊力が飛躍的に向上しました。また装弾が容易となり連射能力も向上しました。
この銃の大量購入は第二次長州征伐で威力を発揮します。幕府軍は10万を超える兵力ながら武器は旧式で、なかには戦国時代を再現した時代錯誤の藩もあったようです。圧倒的兵力があっても旧式の武器の幕府軍は連戦連敗、幕府側にも厭戦気分が漂った矢先に将軍家茂の病死 第二次長州征伐は停戦を余儀なくされ事実上の失敗となります
この第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた、という意味で倒幕の流れが決定的になったということができます
前回の記事で幕末の流れを変えた5つの歴史的事件について述べましたが
この薩長同盟、そしてそれによる第二次長州征討の失敗は江戸幕府の終焉ー幕府衰退を決定的にした事件ーといっていいと思います。だからこそ坂本龍馬も幕末の歴史を変えた男としてその名に留めるべき存在だと考えます
来週はいよいよ龍馬が寺田屋で襲われ重傷を負い、恋人のお龍さんと薩摩に行くようです。ここから歴史がどんどん動いて行きます。幕末から明治への大きなうねりが動きます
西郷どんー幕末の流れを変えた5つの歴史的事件
西郷どん 今日は池田屋事件、そして禁門の変(蛤御門の変)と幕末の大きな事件が次々と出てきました。長州力の来島又兵衛、結構ぴったりでした。
西郷吉之助もこれから歴史の大舞台の中心に入っていきますが、幕末から明治というのは日本の歴史の中でも価値観を始めあらゆることがドラステイックに変化した時代であるため、そのプロセスで大きなうねりが生じています。勿論全てのきっかけがペリーの来航から始まるのですが、ここではペリー来航から明治まで当時の世相の変化を大きく変える事件をおさらいしたいと思います。
ペリー来航、日米和親条約はこれ自体が歴史を動かすカンフル剤のようなものですが、ここから明治まではさまざまな紆余曲折があったのは皆さんご存じの通りです
私は幕末の流れを変えた事件として以下の5つを揚げます
井伊直弼はペリー艦隊と条約を結びますが、実は心からの開国派ではなく要は幕府の権威や従来の幕府の体制維持に一番こだわった人物ーいわば保守派が幕末で事実上時計の針を戻そうとした、というのが真実ではないかと思います。実際そのため橋元佐内、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲浜といった開明派の学者が悲運の最期を迎えました。本来開国派ならばこういう開明派の人たちを重用したはずですが、結果的に幕府の独裁的な政治を強行するという旧態依然の内容でした。それが桜田門外での井伊直弼暗殺につながり、実は幕府の力を結果的に弱めることになりました。
2.長州の下関戦争、薩摩の薩英戦争
以前の記事にも書きましたように、同じ外国の戦争でも下関戦争と薩英戦争は全く内容は違うのですが、
この事件の影響は幕末の中でかなり大きいものです。まず
(1) イギリスや諸外国が幕府よりも薩摩、長州の方を信用することになったこと
(2) (特に長州で) 狭い攘夷運動から開国して力をつけてから外国に対応する大攘夷運動に発展したこと
(3) (1) と(2) で薩摩、長州やその他の藩で「倒幕」の意識が芽生えたこと
3.薩長同盟
さて来週からいよいよ坂本龍馬が本格的に登場しますが、尊王攘夷、そして開国に対する意識が高かった薩摩と長州を結び付けたのは他ならぬ坂本龍馬です
最新の武器が喉から手が出るほど欲しかった長州とご存じシラス台地の影響でコメが取れない薩摩、両者の弱いところを補完することで犬猿の仲だった薩長を結びつけたことは倒幕の方向に決定的にベクトルを動かしました。
薩摩名義で購入された最新鋭の武器を手に入れた長州はこの後起きる第二次長州征伐にて幕府軍を敗退させます。結果的に薩長同盟は幕府の力を大きく衰退させることになったといっていいと思います
あまりこの点を揚げる人は少なくないかもしれませんが実はこの孝明天皇の崩御は幕末の流れを決定的に変えたといっても過言ではありません
ドラマにも描かれていたように孝明天皇は一橋慶喜と松平容保の二人に絶大なる信頼を置いていました。外国嫌いで攘夷論者の精神的支柱ですらあった孝明天皇はある意味外国して日本を近代化しようと考えていた薩摩、長州にとってもかなり足かせだったのは事実です。そのため岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と文書に記しています。
孝明天皇が薨去したのはまさにそうした折であまりにも薩長勢力にとって抜群のタイミングでの薨去であることから毒殺説、他殺説まで出ています。一応死因は天然痘と診断されています。いずれにせよ孝明天皇の崩御から一橋慶喜は事実上の後ろ盾をなくすことになり、会津の松平容保と会津藩にはこれ以降悲劇が展開されてしまう等、薩長と幕府、会津側の立場は大きく変更してしまいます
「大政奉還」政治の権限を天皇に戻す、という処置は元々徳川慶喜にとってまさに起死回生の一手でした。これによって薩長が幕府に武力攻撃を行う大義名分が失われ、それ以降の交渉を有利に進めるためのものでした。
ところが次の日にこの慶喜が致命的なミスを犯してしまいます。以前も同じことを書きましたが、十二月八日の朝議に「病気」と称して欠席したことです。薩摩に囚われの身になるのを恐れていたようでしたが、折角「大政奉還」を行いことを有利に運ぼうと考えていたのですが、この日欠席したためにもう一人の怪物ー岩倉具視を始めとする薩摩、長州にいいようにやられます。ここで「王政復古」のクーデターが行われ御所はすっかり薩摩、長州の勢力下になったわけです。
「朝議に欠席すべきではなかったかー」 悔やんでも時すでに遅し、260年続いた江戸幕府が完全に終わった瞬間でした。
つまり一部誤解しているいる方がおられるようですが、「大政奉還」で江戸幕府が終わったのではありません。「王政復古」のクーデターの時に江戸時代が正式に終わったのです。幕末の結末が決定的になった瞬間でした。
この「王政復古」のクーデターは単に政権が徳川から薩長に移ったのではありません。岩倉具視は革命といっていいことをここで行います。つまり廃止したのは幕府だけではありません、摂関制度ーそう奈良の律令国家以来1100年続いてきた官位制度を全部廃止してしまった、という点です。 「王政復古で一度全部更地にする。」 そして今までにない全く新しい世の中を作る。それがこの「王政復古」のクーデターで行われたことでした。
幕末から明治では政権だけではなく政治制度、その他ありとあらゆることが変わっていきました。日本の歴史を振り返ってみてもここまで、政治制度、生活、価値観、庶民の衣食住までドラステイックに変化した例はないと思います。
「西郷どん」-いよいよ木戸孝允を始め勝海舟、坂本龍馬、等幕末のオールスターが次から次へと出て行きますが、この変化が日本人にとってなんだったのか、いろいろと考えてみたいと思います
10-30代の理想とする「コミュ力」についてー否定や「抵抗」を極端なほど毛嫌いする人たち
実は前々から不思議だった
公文書偽造という犯罪、隠蔽、そして呆れるほどのウソ、まやかしが飛び出しそれでも安倍政権は続きそれどころか支持率まで上がっている。そして前前から気になっているのは野党への支持率が絶望的に低い。特に若者世代ではその傾向が顕著だ。
実際立憲民主党の集会に行っても若い人は殆どみない。
それに関して若者世代が「コミュ力」を重視している事実があるのではないか、というとても興味深い記事があったので紹介する。
内容を読んで大いに納得できたと同時に、正直いってこれが本当だとすると背筋が寒くなった。
この若者たちがいうコミュ力とは簡単にいえば「軋轢、行き違い、齟齬とそれが生み出す気まずい雰囲気を避け、会話を円滑に回すことが理想」とすること
波風を一切立てず、「抵抗」の思想家を毛嫌い、「こだわり」や「情念」を一切出さない。本来なら学生の主体的な学びを重視する「アクティブ・ラーニング」すら周囲や教員の顔色をうかがうことしか考えない。それが「コミュ力」の高い人達であり10-30代の理想とする振る舞いだという
会話がすれ違ったり、お互いの言い分が感情的に対立したりして、それを調整するのに骨が折れるような「面倒臭い」事態を招く、おかしいと思う問題に「こだわり」続ければ、「まだやっているのか」と言われ、不正義に憤って大きな声を出せば、「冷静な議論ができない」と言われ、党内で論争しただけで「内ゲバ」と言われる。
10代ー30代の人たちにいわせればこういう人たちは「コミュ障」というレッテルを貼られ、忌避される。当然のことながら彼らはある特定課題に「こだわり」を持つ人たちや、ある法案に必死に抵抗しようとする勢力を排除する。つまり野党のように与党の法案に疑問を呈したり、あるいはそれをひっくり返したりする振舞いは、「コミュ力」のユートピアでは「コミュ障」とされてしまい徹底的に忌避される。
ではこの10代ー30代が理想とする「コミュ力」を徹底的に推し進め、究極の「コミュ力」を追求するとどうなるか、わかりやすく例を揚げよう
たぶん10代―30代が理想としているのはオウム真理教
実際10-30代の若者で旧オウムに入信する人間が増えているという
そしてナチスドイツである
たぶんこの2つの内容を見て彼らはいうだろう。
「なんという素晴らしいコミュ力の人たちだ!!」
もしかしたら「コミュ力」をすべてに優先する10-30代の若者はそもそも民主主義自体を求めていないのかもしれない。彼らにいわせれば政治の健全性も国民や公の平等性や基本的人権の尊重など、現憲法さえもが現代社会への批判であり、理想論として煙たがっているのかもしれない。それらは全て「コミュ障」の人たちのやりかただと決めつける
カルト宗教であるオウムもそしてナチスドイツも「個」として自らを主張することは一切許されない。個を失った羊の国家こそが彼らの理想なのだ。
だから安倍政権が公文書改竄という犯罪、隠蔽、国会で嘘をどんなについてもそれを追求する野党やそれを支持する一般市民(おじさんかオバサンだ)の方が否定の対象となり徹底的に忌避される。
だがたぶん10-30代の若者から「コミュ障」のオヤぢと決めつけられ忌避されるだろう私だがひとことだけいわせてもらう
あなたたちのいう「コミュ力」はそもそもコミュニケーションではない
コミュニケーションとは情報を「伝える側」と「受け取る側」の2者に分かれ、そのどちらかまたは一方に目的があって情報の往来があることをいう。つまりそこには「伝える側」と「受け取る側」双方の「こだわり」や「情念」の絡みがあることが本来のコミュニケーションである
10-30代の若者がいう「コミュ力」は「こだわり」や「情念」しいては「自らの意見をいうこと」すらも否定する、ということは「伝える側」になることを事実上放棄するということになる。
周囲と「同調する」ことが何よりも優先され、「同調することが上手い人」が「コミュ力」のある人となる
10代ー30代にとって周囲と同調することが何よりも優先する
たぶんこの絵のカザマ君にこういわれることが何よりも嫌なのだろう
ということに大多数が気づいていないということだろう
勿論10代―30代の人たち全員がそうだとは思いたくないし、私の周囲にはそういう人間があまりいないのでまだ希望は捨てていない
だが少なくとも統計上は10代-30代の半数以上がこの「コミュ力」を理想としているとしたら、本当に日本という国のこれからが心配だ。
「コミュ力」を何よりも優先する人たちはあたかも上記のオウム真理教のように周囲との同調する行為、テクニックを何よりも優先するようにあたかも「マインドコントロール」を受けているのだろう。それこそがコミュニケーションの本来のありかただという大勘違いをしているのだ。それだけに一度この「マインドコントロール」を受けるとそれを解くのは至難の業だ。まるで誰かが周到に準備して今の若い世代の洗脳を気が付かないうちに仕掛けたのでは? とそう思いたくなるくらいに巧妙にこの「コミュ力」のワナで若者の思考、行動ががんじがらめにしている印象がある。
海外で教育を受けた私はアメリカの学校には「デイベートの時間」というものが設けられている。そのことによってどの意見が正しいか間違っているかではなく、違う立場や違う意見の人も尊重する、ということを学校で学ぶ。そうすることによって自らの主張を出しやすくなる。だが今の日本人にはそれをできない。そもそも多様性を甘受していないのが今の日本人だ。
少なくとも欧米社会では「自分の意見をもたない」人間は一人前の人間として認められない。だが日本では「自分を意見を持つ」ことは「コミュ障」と判断されてしまう。殆どが一人前の人間として欧米では認められず、世界から取り残される存在になろう
やはり日本人は劣化した。それも救いがたいレベルに
残念だが
映画「ゲッペルスと私」にみる安倍政権支持回復の構造ー自己の利益さえ確保できれば人や社会がどうなろうとかまわないという人たちの支持
全くもって昨今のこの政治状況は一体なんだ?
公文書偽造という犯罪、隠蔽、そして呆れるほどのウソ、まやかしが飛び出しそれでも安倍政権は続き、首相は3選を視野に入れたかに見える。さらには米朝首脳会談を機に内閣の支持率に“異変”が起きた。
いうまでもなく安倍政権の支持率回復
正直私も信じられない、一部の人からは世論調査も改竄されているのではないか、などという説がまことしやかに出ている。無論RDD方式は直接コンピューターに入力されるので調査の過程ではあまり恣意的な行為を行う余地はない。唯一可能性があるとすれば出力されたデータを各報道期間が発表前に改竄すること。勿論公文書を簡単に偽造する政権だから今や何でもあり、といえなくもない。だがそんなことをすればすぐにバレる。調査は各報道機関から独立した組織でやっているからだ。
そうではなく、この支持率のしぶとい復元力にはやはり何かがある。そもそも安倍内閣は、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、安保法制国会審議といった大きな政策論争が起きる度に支持率が下がっても、混乱が過ぎると支持が持ち直す特異なパターンを繰り返している。
これは明らかにネトウヨが原因ではない。ネトウヨなどせいぜい全体の2%くらいしかいない、といわれる。いったん支持を離れるが、また戻ってくる人たちは別にいる。多くの世論調査分析から、その人たちは秘密保護法や集団的自衛権や安保法制そのものには反対ではない。反対論も理解した上で、意識的に大きな政策転換を支持するからこそ、反対派を説得する政権の力不足には厳しく、強引で乱暴な国会審議にも批判的で、モリ・カケ問題のだらしなさに怒る。でも、タブーを克服して理性的に判断しようとするので、手続きや少々のモラル違反には目をつぶり、また安倍内閣支持へ復帰する。
そういう層のようだ
それらについて述べた記事が毎日新聞にあった。かなり読んで納得できると同時に今日本という国の中で確実に悪夢のようなことがおきつつあることに戦慄を覚えずにはいられない
■映画評を超えた現代論
「安倍内閣」の支持率はなぜ回復するのか 「ゲッベルスと私」
現在岩波ホールで上映されているドキュメンタリー映画「ゲッペルスと私」を見てナチスを支持した人たちと安倍政権を現在支持している層との類似性を指摘する。
非常に恐ろしいことだが、なぜ安倍政権がしぶとく支持率を回復するのかについてすごく納得できる説明が行われている。
現在公開中の映画「ゲッペルスと私」
この副題「なんにも知らなかった、私に罪はない」、これがある意味安倍政権の「しぶとい支持者」にも通じる言葉だ。
この映画の主人公はナチスのナンバー2、ゲッベルス宣伝相の秘書だったブルンヒルデ・ポムゼル。4年前、103歳にして戦後69年の沈黙を破り、自らの人生を語った記録をドキュメンタリー映画にしたものらしい
彼女は無数の似たような良識ある一市民にすぎない。たとえゲッベルスの秘書であっても。
みんな私たちは知っていたと思っている。でも、何も知らなかった。最後まで。私に罪があったとは思わない。ドイツ国民全員に罪があるとするなら別よ。結果的に国民はナチスが権力を握るのに加担した。私もその一人。あの時代は波間にいるようだった。最後は自分のことしか考えていなかった。時々良心が痛むけど、自分に感謝の気持ちも湧く。よく生き延びたわね、って
そして後世代からの「自分があの時代にいたらユダヤ人を助けた」との批判にポムゼルは反論する
誠実さから言うのね。でも、同じことをしていたわ。国中がガラスのドームに閉じ込められたようだった。私たち自身が巨大な強制収容所にいたのよ」。反戦ビラをまいて斬首刑となった白バラ運動のショル兄妹を哀れみながらも、さらりと言う。 あんなことをしでかすなんて愚かだった。黙ってさえいたら今ごろきっとまだ生きていたのに。それが普通の人々の見方だった
これに関して上記の記事は次のように分析する
この映画は、転換期の政治意識がいかに形成されるかを提示している。ポムゼルは自分を非政治的人間だと主張する。だから知らなかったし、結果も免罪されるという。だが、彼女は知っていた。身近なユダヤ人たちが消えるのに気づき、異常な事態が進行していると感づいていたからこそ、知らん顔をして我が身を守り、恋人からも距離を置いた。自分個人の利害得失にだけ敏感な、社会や歴史の行方全体には目を閉ざす政治意識の持ち主なのだ。ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」を借りれば、「凡庸な政治的人間」の罪を典型的に象徴している。
転換期の政治は、危機や国難を声高に唱え、「突破するための改革」と称して矢継ぎ早に大きな政策転換を繰り出す。変化を受け入れさせるため、さまざまな標語や決まり文句や掛け声を反復する。気づけば政治が過剰に社会生活を覆い、少なくない人々が政治に目覚め、それと意識せずそれまで持っていなかった政治意識に染まっていく。それは決して戦時期の特殊な現象ではない。一人の平凡で真面目な市民が、どのように自分から進んで政権に動員される政治的人間へと変貌し、そのことに無自覚なまま大きな政治の潮流を支える隊列へ加わるに至るか。麻生太郎副総理兼財務相が5年前「誰も気がつかなかった。(ナチスの)あの手口に学んだらどうか」と述べたのは、改憲手続きのレトリックにとどまらず、今の日本政治全体の手法と発想について、思わず本質を突いた箴言(しんげん)だったのかもしれない。
つまり異常な事態が進行していると感づいてるからこそ、知らん顔をして我が身を守る。自分個人の利害得失にだけ敏感で社会や歴史の行方全体には目を閉ざす政治意識の持ち主ー凡庸な政治的人間」ーこれが安倍政権を支える支持層だという
これはある意味学校等で「いじめ」が起きていても見て見ぬふりをする、近隣で子供が虐待されているも見て見ぬふりをする、そういう「恣意的な無関心」が社会を破滅の道に誘導していく、その構造をみることができる
先程のポムゼルの反戦ビラをまいて斬首刑となった兄妹を あんなことをしでかすなんて愚かだった。黙ってさえいたら今ごろきっとまだ生きていたのにという感覚を持っている人たちが安倍政権をしぶとく支持する人たち、ということだ
それを非難することは簡単だ、という人もいるかもしれない。確かに実際本当に憲法改正され日本がファシズム国家になれば政府批判=生命の危険に直結する社会になればそういう「恣意的な無関心」を行う人たちを簡単には非難できないかもしれない
だがまだ今ならいえる。
そして今だからこそいわなければならない
要するにしぶとく安倍政権を支持する社会の3割ー4割くらいの人たちは
自分さえよければ人や社会がどうなろうとかまわない、ということのようだ。自分の利益だけ追求し、いじめ、暴力、政治的弾圧等危険なことには見て見ぬふりという人たち。
もっとはっきりいえば
自己中、利己主義者が安倍政権の主な支持層
だから 恥を知れ
ということだ。今ならまだこれをいうことができる
最後に「ゲッペルスと私」の予告編をここにご紹介しておく
家から岩波ホールまで少々遠いがやはり見なければならない、と思っている。見なければならない映画がまた山積している。なかなか仕事で行けないが..