KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

西郷どんー同じ戦争でも全く違う薩英戦争と下関戦争、でも後の倒幕の下地はこの時にできあがった

幕末の攘夷運動での大きな動きの1つであった2つの外国との戦争

今日の西郷どんで生麦事件がきっかけに始まる薩英戦争の話が出ましたがここで後に倒幕の中心となる長州藩薩摩藩の外国に対して起こした戦争について述べたいと思います。結論からいいまして両者は全く内容としては対象的な内容です。

しかしいずれも後の歴史に大きな影響を与えたという点では同じです。

・下関戦争

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連合国によって占拠された長府の前田砲台

長州藩が下関海峡を通過する外国船に対して実質的に無差別攻撃(友好国であったオランダをも含む)を行ったことからアメリカ、フランス、オランダそしてイギリスの四か国艦隊から報復攻撃を受け前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始。長州藩兵も応戦し、前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦するが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は砲撃支援の下で前田浜に陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。3日後には長州藩の砲台はことごとく破壊された。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退。

一言でいえば限りなく戦国時代に近い武器で欧米にコテンパンに長州が負けた、というのが下関戦争です。

・薩英戦争

ところが薩英戦争は違いました。結果は「痛み分け」 いや内容からすれば寧ろ薩摩が勝ったとまでいっていいかもしれません。

結論からいいまして当時世界最強といわれたイギリス海軍の軍艦7隻のうち、なんと大破一隻、中破二隻 小破3隻 

戦死者は負傷後の戦死を含め20名、負傷者43名

事実上の撤退に追い込まれたわけです

なぜ両者にそんなに大きな違いが出たのか、理由はこの方が藩主だったからです

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  前の藩主の島津斉彬公は欧米に負けない近代的な軍事訓練そして近代的な技術を集成館で学び様式帆船や軍艦をも建造した、それは西郷どんでもその模様が描かれていましたが、その訓練の成果がここで大いに発揮されたわけです

そしてイギリス海軍も当時は薩摩がこれだけの近代的装備を有していたという認識はたぶん持っておらずかなり油断、というかなめてかかっていた点は否めないと思います。

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薩英戦争は実質2日で終了したわけですが、イギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡)に及びました。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷しました。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷しました。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷しました。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡。薩摩の物的被害は集成館や鹿児島市内を含め甚大ではありましたが、それでもイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは欧米社会に衝撃を与えました。

当時のニューヨーク・タイムズ紙は

「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」

(The Progress of the Japanese War. October 4, 1863., New York Times.)

と評しています 

と全く内容は対象的だったのですが、長州と薩摩の戦後処理をみますと

 

長州藩ー下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立。しかも300万ドルは長州が払うのではなく結局幕府が払うことになった

薩摩藩ー幕府側の説得に入り、イギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すことに。イギリス側は軍艦の購入を承諾 しかもその扶助料は結局幕府が支払うことになった

特に長州藩の講話条件はあれだけコテンパンにやられた割には比較的軽い条件で妥結したようにも思えます。交渉役の高杉晋作の手腕もあったのかもしれません

・歴史的意義

薩摩も長州も被害は甚大でしたが結果として私は大きな歴史的意義があったと考えます

それは

1 イギリスが幕府よりも長州や薩摩を高く評価するようになり、年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩長州藩士と個人的な関係を築いていきます。

通訳官アーネストサトウの日記にも煮え切らない、官僚主義的な幕府の役人に苛立ちを覚えていたという記録があり、それに比べると長州の高杉晋作や薩摩の小松、大久保の方が遙かに信頼できる、という評価を下したものと思われます。

そしてこれは私の勝手な想像ですが

2 少なくともイギリスの対日本に対する戦略、政策がこの戦争によって大きく変わった、変えざるを得なくなったという点

薩英戦争のイギリスの敗退はここ数百年の間でも経験したことのない敗退であり、日本は簡単に侵略できない、無理に侵略しても多大な被害を覚悟しなければならなくなる、ということを実感したためと思われます

長州と薩摩とイギリスとの友好関係はこれを機にますます深まっていきました。

この下関戦争と薩英戦争、内容は対象的ですが後の薩長同盟の下地がこの時にできたということもできます。

長州には伊藤俊輔(博文)と井上問多(馨)という英語に堪能な人物が既におり、この2人もおそらく今後西郷どんに出てくるでしょう

そんなこんなで西郷どん、これから木戸孝允勝海舟坂本龍馬、そしてこの伊藤、井上と幕末のオールスターが出てくるでしょう。楽しみですね