西郷どんー幕末の流れを変えた5つの歴史的事件
西郷どん 今日は池田屋事件、そして禁門の変(蛤御門の変)と幕末の大きな事件が次々と出てきました。長州力の来島又兵衛、結構ぴったりでした。
西郷吉之助もこれから歴史の大舞台の中心に入っていきますが、幕末から明治というのは日本の歴史の中でも価値観を始めあらゆることがドラステイックに変化した時代であるため、そのプロセスで大きなうねりが生じています。勿論全てのきっかけがペリーの来航から始まるのですが、ここではペリー来航から明治まで当時の世相の変化を大きく変える事件をおさらいしたいと思います。
ペリー来航、日米和親条約はこれ自体が歴史を動かすカンフル剤のようなものですが、ここから明治まではさまざまな紆余曲折があったのは皆さんご存じの通りです
私は幕末の流れを変えた事件として以下の5つを揚げます
井伊直弼はペリー艦隊と条約を結びますが、実は心からの開国派ではなく要は幕府の権威や従来の幕府の体制維持に一番こだわった人物ーいわば保守派が幕末で事実上時計の針を戻そうとした、というのが真実ではないかと思います。実際そのため橋元佐内、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲浜といった開明派の学者が悲運の最期を迎えました。本来開国派ならばこういう開明派の人たちを重用したはずですが、結果的に幕府の独裁的な政治を強行するという旧態依然の内容でした。それが桜田門外での井伊直弼暗殺につながり、実は幕府の力を結果的に弱めることになりました。
2.長州の下関戦争、薩摩の薩英戦争
以前の記事にも書きましたように、同じ外国の戦争でも下関戦争と薩英戦争は全く内容は違うのですが、
この事件の影響は幕末の中でかなり大きいものです。まず
(1) イギリスや諸外国が幕府よりも薩摩、長州の方を信用することになったこと
(2) (特に長州で) 狭い攘夷運動から開国して力をつけてから外国に対応する大攘夷運動に発展したこと
(3) (1) と(2) で薩摩、長州やその他の藩で「倒幕」の意識が芽生えたこと
3.薩長同盟
さて来週からいよいよ坂本龍馬が本格的に登場しますが、尊王攘夷、そして開国に対する意識が高かった薩摩と長州を結び付けたのは他ならぬ坂本龍馬です
最新の武器が喉から手が出るほど欲しかった長州とご存じシラス台地の影響でコメが取れない薩摩、両者の弱いところを補完することで犬猿の仲だった薩長を結びつけたことは倒幕の方向に決定的にベクトルを動かしました。
薩摩名義で購入された最新鋭の武器を手に入れた長州はこの後起きる第二次長州征伐にて幕府軍を敗退させます。結果的に薩長同盟は幕府の力を大きく衰退させることになったといっていいと思います
あまりこの点を揚げる人は少なくないかもしれませんが実はこの孝明天皇の崩御は幕末の流れを決定的に変えたといっても過言ではありません
ドラマにも描かれていたように孝明天皇は一橋慶喜と松平容保の二人に絶大なる信頼を置いていました。外国嫌いで攘夷論者の精神的支柱ですらあった孝明天皇はある意味外国して日本を近代化しようと考えていた薩摩、長州にとってもかなり足かせだったのは事実です。そのため岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と暗に示唆して、「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と文書に記しています。
孝明天皇が薨去したのはまさにそうした折であまりにも薩長勢力にとって抜群のタイミングでの薨去であることから毒殺説、他殺説まで出ています。一応死因は天然痘と診断されています。いずれにせよ孝明天皇の崩御から一橋慶喜は事実上の後ろ盾をなくすことになり、会津の松平容保と会津藩にはこれ以降悲劇が展開されてしまう等、薩長と幕府、会津側の立場は大きく変更してしまいます
「大政奉還」政治の権限を天皇に戻す、という処置は元々徳川慶喜にとってまさに起死回生の一手でした。これによって薩長が幕府に武力攻撃を行う大義名分が失われ、それ以降の交渉を有利に進めるためのものでした。
ところが次の日にこの慶喜が致命的なミスを犯してしまいます。以前も同じことを書きましたが、十二月八日の朝議に「病気」と称して欠席したことです。薩摩に囚われの身になるのを恐れていたようでしたが、折角「大政奉還」を行いことを有利に運ぼうと考えていたのですが、この日欠席したためにもう一人の怪物ー岩倉具視を始めとする薩摩、長州にいいようにやられます。ここで「王政復古」のクーデターが行われ御所はすっかり薩摩、長州の勢力下になったわけです。
「朝議に欠席すべきではなかったかー」 悔やんでも時すでに遅し、260年続いた江戸幕府が完全に終わった瞬間でした。
つまり一部誤解しているいる方がおられるようですが、「大政奉還」で江戸幕府が終わったのではありません。「王政復古」のクーデターの時に江戸時代が正式に終わったのです。幕末の結末が決定的になった瞬間でした。
この「王政復古」のクーデターは単に政権が徳川から薩長に移ったのではありません。岩倉具視は革命といっていいことをここで行います。つまり廃止したのは幕府だけではありません、摂関制度ーそう奈良の律令国家以来1100年続いてきた官位制度を全部廃止してしまった、という点です。 「王政復古で一度全部更地にする。」 そして今までにない全く新しい世の中を作る。それがこの「王政復古」のクーデターで行われたことでした。
幕末から明治では政権だけではなく政治制度、その他ありとあらゆることが変わっていきました。日本の歴史を振り返ってみてもここまで、政治制度、生活、価値観、庶民の衣食住までドラステイックに変化した例はないと思います。
「西郷どん」-いよいよ木戸孝允を始め勝海舟、坂本龍馬、等幕末のオールスターが次から次へと出て行きますが、この変化が日本人にとってなんだったのか、いろいろと考えてみたいと思います
10-30代の理想とする「コミュ力」についてー否定や「抵抗」を極端なほど毛嫌いする人たち
実は前々から不思議だった
公文書偽造という犯罪、隠蔽、そして呆れるほどのウソ、まやかしが飛び出しそれでも安倍政権は続きそれどころか支持率まで上がっている。そして前前から気になっているのは野党への支持率が絶望的に低い。特に若者世代ではその傾向が顕著だ。
実際立憲民主党の集会に行っても若い人は殆どみない。
それに関して若者世代が「コミュ力」を重視している事実があるのではないか、というとても興味深い記事があったので紹介する。
内容を読んで大いに納得できたと同時に、正直いってこれが本当だとすると背筋が寒くなった。
この若者たちがいうコミュ力とは簡単にいえば「軋轢、行き違い、齟齬とそれが生み出す気まずい雰囲気を避け、会話を円滑に回すことが理想」とすること
波風を一切立てず、「抵抗」の思想家を毛嫌い、「こだわり」や「情念」を一切出さない。本来なら学生の主体的な学びを重視する「アクティブ・ラーニング」すら周囲や教員の顔色をうかがうことしか考えない。それが「コミュ力」の高い人達であり10-30代の理想とする振る舞いだという
会話がすれ違ったり、お互いの言い分が感情的に対立したりして、それを調整するのに骨が折れるような「面倒臭い」事態を招く、おかしいと思う問題に「こだわり」続ければ、「まだやっているのか」と言われ、不正義に憤って大きな声を出せば、「冷静な議論ができない」と言われ、党内で論争しただけで「内ゲバ」と言われる。
10代ー30代の人たちにいわせればこういう人たちは「コミュ障」というレッテルを貼られ、忌避される。当然のことながら彼らはある特定課題に「こだわり」を持つ人たちや、ある法案に必死に抵抗しようとする勢力を排除する。つまり野党のように与党の法案に疑問を呈したり、あるいはそれをひっくり返したりする振舞いは、「コミュ力」のユートピアでは「コミュ障」とされてしまい徹底的に忌避される。
ではこの10代ー30代が理想とする「コミュ力」を徹底的に推し進め、究極の「コミュ力」を追求するとどうなるか、わかりやすく例を揚げよう
たぶん10代―30代が理想としているのはオウム真理教
実際10-30代の若者で旧オウムに入信する人間が増えているという
そしてナチスドイツである
たぶんこの2つの内容を見て彼らはいうだろう。
「なんという素晴らしいコミュ力の人たちだ!!」
もしかしたら「コミュ力」をすべてに優先する10-30代の若者はそもそも民主主義自体を求めていないのかもしれない。彼らにいわせれば政治の健全性も国民や公の平等性や基本的人権の尊重など、現憲法さえもが現代社会への批判であり、理想論として煙たがっているのかもしれない。それらは全て「コミュ障」の人たちのやりかただと決めつける
カルト宗教であるオウムもそしてナチスドイツも「個」として自らを主張することは一切許されない。個を失った羊の国家こそが彼らの理想なのだ。
だから安倍政権が公文書改竄という犯罪、隠蔽、国会で嘘をどんなについてもそれを追求する野党やそれを支持する一般市民(おじさんかオバサンだ)の方が否定の対象となり徹底的に忌避される。
だがたぶん10-30代の若者から「コミュ障」のオヤぢと決めつけられ忌避されるだろう私だがひとことだけいわせてもらう
あなたたちのいう「コミュ力」はそもそもコミュニケーションではない
コミュニケーションとは情報を「伝える側」と「受け取る側」の2者に分かれ、そのどちらかまたは一方に目的があって情報の往来があることをいう。つまりそこには「伝える側」と「受け取る側」双方の「こだわり」や「情念」の絡みがあることが本来のコミュニケーションである
10-30代の若者がいう「コミュ力」は「こだわり」や「情念」しいては「自らの意見をいうこと」すらも否定する、ということは「伝える側」になることを事実上放棄するということになる。
周囲と「同調する」ことが何よりも優先され、「同調することが上手い人」が「コミュ力」のある人となる
10代ー30代にとって周囲と同調することが何よりも優先する
たぶんこの絵のカザマ君にこういわれることが何よりも嫌なのだろう
ということに大多数が気づいていないということだろう
勿論10代―30代の人たち全員がそうだとは思いたくないし、私の周囲にはそういう人間があまりいないのでまだ希望は捨てていない
だが少なくとも統計上は10代-30代の半数以上がこの「コミュ力」を理想としているとしたら、本当に日本という国のこれからが心配だ。
「コミュ力」を何よりも優先する人たちはあたかも上記のオウム真理教のように周囲との同調する行為、テクニックを何よりも優先するようにあたかも「マインドコントロール」を受けているのだろう。それこそがコミュニケーションの本来のありかただという大勘違いをしているのだ。それだけに一度この「マインドコントロール」を受けるとそれを解くのは至難の業だ。まるで誰かが周到に準備して今の若い世代の洗脳を気が付かないうちに仕掛けたのでは? とそう思いたくなるくらいに巧妙にこの「コミュ力」のワナで若者の思考、行動ががんじがらめにしている印象がある。
海外で教育を受けた私はアメリカの学校には「デイベートの時間」というものが設けられている。そのことによってどの意見が正しいか間違っているかではなく、違う立場や違う意見の人も尊重する、ということを学校で学ぶ。そうすることによって自らの主張を出しやすくなる。だが今の日本人にはそれをできない。そもそも多様性を甘受していないのが今の日本人だ。
少なくとも欧米社会では「自分の意見をもたない」人間は一人前の人間として認められない。だが日本では「自分を意見を持つ」ことは「コミュ障」と判断されてしまう。殆どが一人前の人間として欧米では認められず、世界から取り残される存在になろう
やはり日本人は劣化した。それも救いがたいレベルに
残念だが
映画「ゲッペルスと私」にみる安倍政権支持回復の構造ー自己の利益さえ確保できれば人や社会がどうなろうとかまわないという人たちの支持
全くもって昨今のこの政治状況は一体なんだ?
公文書偽造という犯罪、隠蔽、そして呆れるほどのウソ、まやかしが飛び出しそれでも安倍政権は続き、首相は3選を視野に入れたかに見える。さらには米朝首脳会談を機に内閣の支持率に“異変”が起きた。
いうまでもなく安倍政権の支持率回復
正直私も信じられない、一部の人からは世論調査も改竄されているのではないか、などという説がまことしやかに出ている。無論RDD方式は直接コンピューターに入力されるので調査の過程ではあまり恣意的な行為を行う余地はない。唯一可能性があるとすれば出力されたデータを各報道期間が発表前に改竄すること。勿論公文書を簡単に偽造する政権だから今や何でもあり、といえなくもない。だがそんなことをすればすぐにバレる。調査は各報道機関から独立した組織でやっているからだ。
そうではなく、この支持率のしぶとい復元力にはやはり何かがある。そもそも安倍内閣は、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、安保法制国会審議といった大きな政策論争が起きる度に支持率が下がっても、混乱が過ぎると支持が持ち直す特異なパターンを繰り返している。
これは明らかにネトウヨが原因ではない。ネトウヨなどせいぜい全体の2%くらいしかいない、といわれる。いったん支持を離れるが、また戻ってくる人たちは別にいる。多くの世論調査分析から、その人たちは秘密保護法や集団的自衛権や安保法制そのものには反対ではない。反対論も理解した上で、意識的に大きな政策転換を支持するからこそ、反対派を説得する政権の力不足には厳しく、強引で乱暴な国会審議にも批判的で、モリ・カケ問題のだらしなさに怒る。でも、タブーを克服して理性的に判断しようとするので、手続きや少々のモラル違反には目をつぶり、また安倍内閣支持へ復帰する。
そういう層のようだ
それらについて述べた記事が毎日新聞にあった。かなり読んで納得できると同時に今日本という国の中で確実に悪夢のようなことがおきつつあることに戦慄を覚えずにはいられない
■映画評を超えた現代論
「安倍内閣」の支持率はなぜ回復するのか 「ゲッベルスと私」
現在岩波ホールで上映されているドキュメンタリー映画「ゲッペルスと私」を見てナチスを支持した人たちと安倍政権を現在支持している層との類似性を指摘する。
非常に恐ろしいことだが、なぜ安倍政権がしぶとく支持率を回復するのかについてすごく納得できる説明が行われている。
現在公開中の映画「ゲッペルスと私」
この副題「なんにも知らなかった、私に罪はない」、これがある意味安倍政権の「しぶとい支持者」にも通じる言葉だ。
この映画の主人公はナチスのナンバー2、ゲッベルス宣伝相の秘書だったブルンヒルデ・ポムゼル。4年前、103歳にして戦後69年の沈黙を破り、自らの人生を語った記録をドキュメンタリー映画にしたものらしい
彼女は無数の似たような良識ある一市民にすぎない。たとえゲッベルスの秘書であっても。
みんな私たちは知っていたと思っている。でも、何も知らなかった。最後まで。私に罪があったとは思わない。ドイツ国民全員に罪があるとするなら別よ。結果的に国民はナチスが権力を握るのに加担した。私もその一人。あの時代は波間にいるようだった。最後は自分のことしか考えていなかった。時々良心が痛むけど、自分に感謝の気持ちも湧く。よく生き延びたわね、って
そして後世代からの「自分があの時代にいたらユダヤ人を助けた」との批判にポムゼルは反論する
誠実さから言うのね。でも、同じことをしていたわ。国中がガラスのドームに閉じ込められたようだった。私たち自身が巨大な強制収容所にいたのよ」。反戦ビラをまいて斬首刑となった白バラ運動のショル兄妹を哀れみながらも、さらりと言う。 あんなことをしでかすなんて愚かだった。黙ってさえいたら今ごろきっとまだ生きていたのに。それが普通の人々の見方だった
これに関して上記の記事は次のように分析する
この映画は、転換期の政治意識がいかに形成されるかを提示している。ポムゼルは自分を非政治的人間だと主張する。だから知らなかったし、結果も免罪されるという。だが、彼女は知っていた。身近なユダヤ人たちが消えるのに気づき、異常な事態が進行していると感づいていたからこそ、知らん顔をして我が身を守り、恋人からも距離を置いた。自分個人の利害得失にだけ敏感な、社会や歴史の行方全体には目を閉ざす政治意識の持ち主なのだ。ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」を借りれば、「凡庸な政治的人間」の罪を典型的に象徴している。
転換期の政治は、危機や国難を声高に唱え、「突破するための改革」と称して矢継ぎ早に大きな政策転換を繰り出す。変化を受け入れさせるため、さまざまな標語や決まり文句や掛け声を反復する。気づけば政治が過剰に社会生活を覆い、少なくない人々が政治に目覚め、それと意識せずそれまで持っていなかった政治意識に染まっていく。それは決して戦時期の特殊な現象ではない。一人の平凡で真面目な市民が、どのように自分から進んで政権に動員される政治的人間へと変貌し、そのことに無自覚なまま大きな政治の潮流を支える隊列へ加わるに至るか。麻生太郎副総理兼財務相が5年前「誰も気がつかなかった。(ナチスの)あの手口に学んだらどうか」と述べたのは、改憲手続きのレトリックにとどまらず、今の日本政治全体の手法と発想について、思わず本質を突いた箴言(しんげん)だったのかもしれない。
つまり異常な事態が進行していると感づいてるからこそ、知らん顔をして我が身を守る。自分個人の利害得失にだけ敏感で社会や歴史の行方全体には目を閉ざす政治意識の持ち主ー凡庸な政治的人間」ーこれが安倍政権を支える支持層だという
これはある意味学校等で「いじめ」が起きていても見て見ぬふりをする、近隣で子供が虐待されているも見て見ぬふりをする、そういう「恣意的な無関心」が社会を破滅の道に誘導していく、その構造をみることができる
先程のポムゼルの反戦ビラをまいて斬首刑となった兄妹を あんなことをしでかすなんて愚かだった。黙ってさえいたら今ごろきっとまだ生きていたのにという感覚を持っている人たちが安倍政権をしぶとく支持する人たち、ということだ
それを非難することは簡単だ、という人もいるかもしれない。確かに実際本当に憲法改正され日本がファシズム国家になれば政府批判=生命の危険に直結する社会になればそういう「恣意的な無関心」を行う人たちを簡単には非難できないかもしれない
だがまだ今ならいえる。
そして今だからこそいわなければならない
要するにしぶとく安倍政権を支持する社会の3割ー4割くらいの人たちは
自分さえよければ人や社会がどうなろうとかまわない、ということのようだ。自分の利益だけ追求し、いじめ、暴力、政治的弾圧等危険なことには見て見ぬふりという人たち。
もっとはっきりいえば
自己中、利己主義者が安倍政権の主な支持層
だから 恥を知れ
ということだ。今ならまだこれをいうことができる
最後に「ゲッペルスと私」の予告編をここにご紹介しておく
家から岩波ホールまで少々遠いがやはり見なければならない、と思っている。見なければならない映画がまた山積している。なかなか仕事で行けないが..
西郷どんー同じ戦争でも全く違う薩英戦争と下関戦争、でも後の倒幕の下地はこの時にできあがった
幕末の攘夷運動での大きな動きの1つであった2つの外国との戦争
今日の西郷どんで生麦事件がきっかけに始まる薩英戦争の話が出ましたがここで後に倒幕の中心となる長州藩と薩摩藩の外国に対して起こした戦争について述べたいと思います。結論からいいまして両者は全く内容としては対象的な内容です。
しかしいずれも後の歴史に大きな影響を与えたという点では同じです。
・下関戦争
連合国によって占拠された長府の前田砲台
長州藩が下関海峡を通過する外国船に対して実質的に無差別攻撃(友好国であったオランダをも含む)を行ったことからアメリカ、フランス、オランダそしてイギリスの四か国艦隊から報復攻撃を受け前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始。長州藩兵も応戦し、前田砲台・州岬砲台・壇ノ浦砲台などが善戦するが火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられた。艦隊は砲撃支援の下で前田浜に陸戦隊を降ろし、砲台を占拠して砲を破壊した。3日後には長州藩の砲台はことごとく破壊された。陸戦でも長州藩兵は旧式銃や槍弓矢しか持たず、新式のライフル銃を持つ連合軍を相手に敗退。
一言でいえば限りなく戦国時代に近い武器で欧米にコテンパンに長州が負けた、というのが下関戦争です。
・薩英戦争
ところが薩英戦争は違いました。結果は「痛み分け」 いや内容からすれば寧ろ薩摩が勝ったとまでいっていいかもしれません。
結論からいいまして当時世界最強といわれたイギリス海軍の軍艦7隻のうち、なんと大破一隻、中破二隻 小破3隻
戦死者は負傷後の戦死を含め20名、負傷者43名
事実上の撤退に追い込まれたわけです
なぜ両者にそんなに大きな違いが出たのか、理由はこの方が藩主だったからです
前の藩主の島津斉彬公は欧米に負けない近代的な軍事訓練そして近代的な技術を集成館で学び様式帆船や軍艦をも建造した、それは西郷どんでもその模様が描かれていましたが、その訓練の成果がここで大いに発揮されたわけです
そしてイギリス海軍も当時は薩摩がこれだけの近代的装備を有していたという認識はたぶん持っておらずかなり油断、というかなめてかかっていた点は否めないと思います。
薩英戦争は実質2日で終了したわけですが、イギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死を含む死者13人、負傷者50人内7人死亡)に及びました。一方、薩摩側の人的損害は祇園之洲砲台では税所清太郎(篤風)のみが戦死し、同砲台の諸砲台総物主(部隊長)の川上龍衛や他に守備兵6名が負傷しました。他の砲台では沖小島砲台で2名の砲手などが負傷しました。市街地では7月2日に流れ弾に当たった守衛兵が3人死亡、5人が負傷しました。7月3日も流れ弾に当たった守衛兵1名が死亡。薩摩の物的被害は集成館や鹿児島市内を含め甚大ではありましたが、それでもイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは欧米社会に衝撃を与えました。
当時のニューヨーク・タイムズ紙は
「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」
(The Progress of the Japanese War. October 4, 1863., New York Times.)
と評しています
と全く内容は対象的だったのですが、長州と薩摩の戦後処理をみますと
長州藩ー下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立。しかも300万ドルは長州が払うのではなく結局幕府が払うことになった
薩摩藩ー幕府側の説得に入り、イギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すことに。イギリス側は軍艦の購入を承諾 しかもその扶助料は結局幕府が支払うことになった
特に長州藩の講話条件はあれだけコテンパンにやられた割には比較的軽い条件で妥結したようにも思えます。交渉役の高杉晋作の手腕もあったのかもしれません
・歴史的意義
薩摩も長州も被害は甚大でしたが結果として私は大きな歴史的意義があったと考えます
それは
1 イギリスが幕府よりも長州や薩摩を高く評価するようになり、年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士長州藩士と個人的な関係を築いていきます。
通訳官アーネストサトウの日記にも煮え切らない、官僚主義的な幕府の役人に苛立ちを覚えていたという記録があり、それに比べると長州の高杉晋作や薩摩の小松、大久保の方が遙かに信頼できる、という評価を下したものと思われます。
そしてこれは私の勝手な想像ですが
2 少なくともイギリスの対日本に対する戦略、政策がこの戦争によって大きく変わった、変えざるを得なくなったという点
薩英戦争のイギリスの敗退はここ数百年の間でも経験したことのない敗退であり、日本は簡単に侵略できない、無理に侵略しても多大な被害を覚悟しなければならなくなる、ということを実感したためと思われます
長州と薩摩とイギリスとの友好関係はこれを機にますます深まっていきました。
この下関戦争と薩英戦争、内容は対象的ですが後の薩長同盟の下地がこの時にできたということもできます。
長州には伊藤俊輔(博文)と井上問多(馨)という英語に堪能な人物が既におり、この2人もおそらく今後西郷どんに出てくるでしょう
そんなこんなで西郷どん、これから木戸孝允、勝海舟、坂本龍馬、そしてこの伊藤、井上と幕末のオールスターが出てくるでしょう。楽しみですね
新潟県知事選惜敗 原因を分析ー「ムサシ」=不正選挙説はデマなので忘れましょう
昨日行われた新潟県知事選 この選挙はただの地方選挙でなく日本の行く末を大きく左右する選挙だと考えて、野党側としては是が非でも勝ちたかった選挙だが
あと一歩及ばず、無念である。立候補された池田千賀子候補を始めスタッフ(多くのボランテイア含め)は非常に頑張られたと思い、心から敬意を表す次第
これに関して分析する前に野党支持者、リベラル系支持者に対して相も変わらず出てくる発言に対しては苦言を呈させていただく
いうまでもなく「ムサシ」による不正選挙説である。この情報の出所はどこかわからないが、私自身昨年の衆議院選挙で、そして私以外の数人が実際に開票立会人をした上で実際その場に居合わせた。例によってその「ムサシ」(正式には「テラック」という機種名)が票を改竄している、とか鉛筆で書いた候補名を消して白票にする、とかいった情報がまことしやかに広まっている。あえていうがこれは完全なデマである。
この機械ができること それは開票した票を数える ただそれだけである。しくみは銀行などにある札を数えるのと同じ
この機械のどこをみても紙の文字を書きかえるような機能も部品もないし、だいたい鉛筆で消しゴムで消したとしても必ず書いた跡が出るものである。
少なくとも私が見た範囲ではそんな疑いを持つような票は一枚もなかった
ネット言説をみると「ムサシ」によって鉛筆は消されるので油性マジックをもっていけ」「投票用紙改ざん装置は鉛筆のカーボンを遊離させ、再付着させる手法が考えられる」とか書いてある。開票現場を知らないと、「そんなことができる機械があるのか」と信じてしまう人もいるようなので特にそこの部分を私も注視した。結論からいうと「ムサシ」(テラック)を注視しながら職員が票をセットし、100ずつ数えていく様子をみていた。ただ数える。それだけ。それ以上のことはどう考えたってできない
無論集計ミスとかいうのは起こりうるが、それは複数の人間が再三再四確認して起きないようにしているし、私の現場でも起きていなかった。有効票を何度も精査したが、消しゴムなどの消し跡がある票はどこ探してもなかった。投票所には鉛筆しか置いてないから、消しゴムの余地は持参しない限りありえない。書き損じの票はたくさんあったもののそれは線を引いて訂正していて、それも有効票としての扱いを得た。
また開票立会人の席にも、立会人による書き換えができないよう、赤のボールペンしか置かれていないことも付け加えておく。とても持参した鉛筆と消しゴムでそんな不正は行う余地はどう考えてもない。
すでに私以外にも選挙立会人をやった人がブログ記事に書いている。私とほぼ同じことを書いている、ちなみに片方は共産党員の方なのでこの「ムサシ」(テラック)について嘘の事実を書く理由などない
■「ムサシ」は票を改ざんする? ルポ 開票立会人
さてこれだけのレポートがあるにもかかわらず「ムサシ」=不正選挙というデマ情報が一向に消えない理由は何か?
それは現代人は「そうであってほしい情報」「自分にとって都合のいい情報」というものを信じやすくなっている、という点だ。
だが「自分にとってあってほしい情報」「自分にとって都合のいい情報」だけを信用するというのはネトウヨが信じ込んでいる言説を「専門家の分析、見解」のデータよりも「チャンネル桜」の情報を信じ込んている傾向とたいして変わらない。つまり「ムサシ」=不正選挙説はあえていうがネトウヨレベルのデマを信じ込み拡散する構図と全く同じである。何もネトウヨの思考回路と同じレベルに自らを合わせる必要はないと思うし、このような行為はリベラリズムそのものを貶めるものである。こういったデマがまかり通ると、どんなにまじめに要求運動や住民投票や選挙をやっても、この陰謀論があるから無駄だと思わせてしまうことにもなりかねない。いずれにせよ、選挙に負けて悔しい、「もっと票があるはずだ」という思いから「ムサシ」=不正選挙説を信じたくなる気持ちもわからんではないが、こういう行動はかえってリベラリズムを一般の方々から遠ざける行為にもなるのでやめていただきたい
さて、前置きがずいぶん長くなってしまったが、今回の新潟県知事選挙 ずばり敗因は何だろう? まず投票率をみると最終的な投票率は57%、おととしの選挙の投票率が53.05%だったことから、およそ4ポイント高い。
とはいえ決して高いとはいえない投票率である。
新潟県の有権者数は1,982,568人(総務省データ)ということは1%は1万9千人 2%で3万8千人である。となると投票率60%でその大半が池田候補に投票すれば逆転もあり得たといっていい
その意味でも「ムサシ」=不正選挙説を拡散することは投票率を下げる効果はあっても上げる事にはならないことは明白だ
あともう一点、今回「第三の候補」である安中聡氏なる人物が立候補した。この人物の詳細については不明だが、もしこの安中氏が立候補を見合わせれば池田候補に十分勝機があったはずである。
つまりこのことによって余計明白になったのは
野党統一候補で選挙区で自公の候補と対戦する構図を作らないと勝てない、という点である。
安倍政権の暴走を一日も早く止める意味でも、この体制をきちんとつくりあげるべきだ。ひょっとしたら年内にある衆院解散(私はかなりの確率であると考えている)に向けて、そして来年の統一地方選挙、参議院選挙に関して野党5党で準備することを強く提言する
日大内田前監督と安部晋三があまりにシンクロし過ぎている件ー自己保身、下への責任押し付け
日大の悪質なタックルの件で昨日直接の加害者であった宮川選手が日本記者クラブで会見した。この選手は会見の中で、反則行為は内田正人前監督やコーチによる指示だったと主張した
■会見を行った当該選手が読み上げた陳述書全文
そしてそれに呼応する形で日大アメフット部の内田正人前監督と井上奨コーチが会見を行い、
「QBをつぶせ」という発言を認めつつも「(宮川選手に)覚悟を決めてほしいということで言った。けがをさせることを目的としたことは言っていない」と述べ、けがをさせる意図はなかったと説明した。内田前監督は悪質タックルに至ったことは自らの「指示ではない」と改めて否定した。
だが両方の会見をみればどちらが真実を語っているかは火をみるよりも明らかだ
宮川選手は自分の非を素直に認め全てを赤裸々に話しているのが伝わり好感をもった。一方内田前監督とコーチの会見は、自己保身を図りと責任を選手に実質的になすりつけていることがわかる。
「QBをつぶせとは言ったが、それは『QBをケガさせろ』という意味ではなかった。選手が勝手にそのように解釈したなら言葉足らずだったが実行した選手の責任であって我々は悪くない」
典型的な詭弁である。どうも最近の日本人はこの手の詭弁に怒らず慣れてしまったのではないだろうか?
私のtwitterでも何回かつぶやいたが、この日大側の対応があまりに安倍政権の森友、加計、自衛隊日報の隠蔽、その他諸々の対応にあまりに酷似している点は、私だけでなく多くのネットユーザーが指摘していた。
どこが似ているか? 以下をみれば明らかだ
1.監督や首相にあたる人物が「責任を取る」といいながら、上が下に全部責任を押し付け自己保身を図る姿
2.下の人間には組織を庇えば賞され、真実を述べれば裏切者と叩く姿勢を貫き圧力をかける姿ー回答は否定と「記憶にない」を繰り返す
3. 自分たちの非を認めず、言い訳と詭弁ばかり駆使して平然と嘘をつくこと
これらの対応ぶりをみて日大の今回の姿勢があまりにも安倍政権に似ていると感じたのは私だけではない。
そしてこれは単なる1スポーツの問題ではない。ここに今の日本社会に蔓延する悪習ー組織を守るためには社会正義を曲げてもよい、責任は下に押し付けトップは責任は負わない、といった悪しき風潮が今この国を急速に支配しつつあり、今回の悪質タックルの日大の対応はまさにその風潮をあまりにステレオタイプ的に反映したものだからである。
実際安倍政権の方もあれだけ改竄、隠蔽、その他セクハラ等多くの不祥事が生じながら一人の政治家も辞任していないし、佐川氏の証人喚問の回答拒否、柳瀬氏の参考人招致の「記憶が自在に変化する」といったおよそ国民を愚弄した事態が生じている、
今日の日大の内田前監督や井上コーチの会見は本来なら「嘘つき!!」と怒ってもいい事態だ。監督は非を認めず、井上コーチに全て罪を押し着せるというところで、安倍晋三と佐川前長官の構造と見事なまでに同じだ。井上コーチに責任を押し付けて逃げ切りを図る展開はロコツすぎるといっていい。
会見で平気でうそをつく。第三者でも嘘だと簡単にわかる発言を行う。だが総理大臣や内田前監督を筆頭にあまりに嘘が続くと日本人はあまりに嘘つきが多すぎて免疫ができてしまったのではないか?とすら思う。
日本人は嘘に怒るのを忘れてしまったのではないか? あまりに嘘つきが多すぎて。どうも一向に下がらない安倍政権の支持率を見てもそう思ってしまうのだ。
そしてこの問題はあまりに最近の日本社会の病巣と問題点をロコツなまで提示してしまった。
安倍政権の場合は佐川前長官や柳瀬経産審議官はともに官邸の犬(それも使い捨ての)としてしかもはや生きる道はないと決めたらしく、あのような国会招致になったが、日大の宮川選手の場合は違った。
弁護士に付き添われて勇気ある会見で全てを明らかにしてくれた。あの会見を見て宮川選手が嘘をついているなどとは誰も思わないであろう
なぜか? よく考えれば当たり前である。宮川氏はいずれ大学を卒業して社会人となる、そのため組織を庇って社会的信用を失うよりは、真実を語り彼の未来を確保した方が得策だからだ。例え日大アメフトの幹部からどんなに非難や迫害を受けようともそこまで自分の将来と自分そのものを捨てる必要はなかったからである。佐川、柳瀬とそこが違う
宮川選手はもはやアメリカンフットボールを続けるつもりはないという。宮川選手は日本代表にも入るほどの逸材だったそうだが、日大の幹部は自らの保身で将来ある選手の未来を台無しにしてしまったのである。
そして今回、監督が自ら責任を取らず実質的に選手に責任をなすりつける、こんな監督に選手がついていくはずがない。実際日大のアメフト部は退部者が続出しているという。宮川選手も退部するのは時間の問題と見られておりこのままだと強豪で伝統があった日大アメリカンフットボール部は事実上廃部の可能性が高い。
今回の事態で内田前監督は日大の常務理事の職務一時停止、井上コーチはアメフット部の辞任を表明 したが、あくまで一時停止である。これは安倍晋三よろしく「どうせいずれみんな忘れるさ、それまで大人しくしていよう」という魂胆にも受け取れる、
ここに日本大学の自浄能力が問われている。
もし日大という日本最大の学生数を誇る大学が健全な組織であることを世間に示すのならば
1.内田前監督の常務理事を一時停止ではなく解任
2.内田前監督の学外追放
この2点は最低限やっておかないと社会的理解は得られないのではないだろうか?
普通の常識ならば、の話し
もっとも同様に酷い状況の安倍政権だがまだ3-4割の支持がある。
それを考えると今の日本人の精神構造が心配になる。
安倍政権の森友、加計の対応が日大やその他の組織にモラルハザードとして波及している、今回の事態を見るにそんな気がしてならないのだ。
モラルハザードがこのまま当たり前のようにまかり通ると日本という国はもう終わってしまう。その懸念が本物にならないよう祈るものである
「総理は安倍以外いない」とすっかり洗脳され著しく劣化した日本国民ー森友加計の国民を愚弄した回答にも支持率下がらない背景
先日の柳瀬唯夫元首相秘書官の参考人招致の素人でも嘘とわかる証言、さらに森友、加計の事件解明に対する与党の極めて非協力的な態度ー明らかに「都合の悪い」ことを画そうとしている、 これらを見ても本当に国民を愚弄しているとしか思えない対応を安倍政権は取り続けているにも関わらず、何と支持率大幅下落どころか寧ろ上がっている世論調査まである。
支持する 38.9%(1.9ポイント高) 支持しない 50.3% (2.3ポイント低)
備考:柳瀬氏の答弁については、共同調査で75.5%が「納得できない」と回答
・JNN(5月13日)
支持する 40.6%(0.6ポイント高) 支持しない 57.7% (0.7ポイント低)
備考:柳瀬氏の答弁については、JNN調査で80%が「納得できない」と回答
・NNN(日テレ)(5月20日)
支持する 32.4%(5.7ポイント高) 支持しない 50.6% (2.8ポイント低)
備考:柳瀬氏の答弁については、NNN調査で78.4%が「納得できない」と回答
・朝日新聞(5月20-21日)
支持する 34.1%(5.1ポイント高) 支持しない 51.1% (4.1ポイント低)
備考:柳瀬氏の答弁については、NNN調査で83%が「納得できない」と回答
カジノを含むIR(統合型リゾート)実施法案については支持しない人が67%
・読売新聞(5月18-20日)
支持する 42%(3ポイント高) 支持しない 47% (6ポイント低)
備考:柳瀬氏の答弁については、NNN調査で77%が「納得できない」と回答
働き方改革関連法案 60%が「成立させるべきではない」
カジノを含むIR(統合型リゾート)実施法案については支持しない人が69%
・FNN(フジサンケイ)(5月21日)
支持する 39.8%(1.5ポイント高) 支持しない 48.5% (5.6ポイント低)
備考:柳瀬氏の答弁については、NNN調査で76%が「納得できない」と回答
働き方改革関連法案」 57.9%が「反対」
上記の世論調査を改竄、とかインチキという人がリベラル系にいるが気持ちはわからんではないが、これだけ各社が同様なデータの傾向を示している以上、支持が若干持ち直し不支持も支持を上回っているとはいえ下がっているというのが全般的な傾向なのだろう。電話調査は全て直接コンピューターに入力し直接計算されるのでそこにはあまり人為が加わる余地はない
それにしても公文書の改竄、自衛隊日報やその他の文書の隠蔽、さらに佐川元長官や柳瀬氏の国民を愚弄した答弁(柳瀬氏に関しては7-8割が「納得できない」と回答しているにも関わらず)、そして事件の実態解明に極めて非協力的な与党、このように「何処まで国民をバカにしたら気が済むのか」ということをしておきながら支持が持ち直すというのは正直私の理解の範囲を超えている
さらに今国会の一応目玉となっている働き方改革関連法案、カジノを含むIR(統合型リゾート)実施法案も5-6割の人が反対している。いずれも与党が強行採決してでも成立させる素振りを見せている。それでいて支持が上がるというのは明らかに矛盾している。
先月の当ブログの記事
dot.asahi.com ここでは徹底的に対米従属姿勢を取る安倍政権は、結局米国が天皇にとってかわる「国体」になっているという。つまり皇居にいる天皇よりも米大統領を天皇のように扱っているという。確かにそういわれると思い当たることが多々ある
以下の部分を引用する
GHQは日本を円滑に統治し、親米国へと作り変えるためには天皇制を残すべきと決めました。それは、熱心な研究の末に彼らが得た結論でした。その結果、「米国に支配されている」という事実が曖昧なものになっていきました。
やがてそれは、長い時間を経て「自発的に米国に従属し、かつ、そうしていることを否認する」という日本人を生み出しました。日本が世界に類をみない対米従属の国であるのは、被支配の事実を今の日本人がちゃんと認識していないことです。
支配されていること、つまり不自由を自覚するところから自由への希求と知性の発展が始まりますが、そもそも支配されているとの自覚がなければ、何も始まらず、奴隷根性だけがはびこります。「支配の否認」を続けている限りは、日本はこの閉塞感から抜け出すことも、さらなる破局を逃れることもできないでしょう。
<中略>
「国体」は、人間の思考を停止させるます。本来であれば、冷戦が終わった時期に独立についての議論が再び起きて当然でした。しかし、そうはならなかった。なにせ、被支配の現実が見えなくなったのですから、支配から脱しようという発想も出て来ようがない。こうして、もともと対米従属は敗戦の結果余儀なくされたものであり、復興のための手段であったはずが、自己目的化するに至ります。そうなると、自分の頭で考える能力も意欲も失われてきます。
<中略>
いまも政府は、「核・ミサイル・拉致の包括的解決」を訴えていますが、朝鮮戦争を平和的に終わらせようとは政府の誰も言わない。つまり、「戦後の国体」の支配者層は、朝鮮戦争が終わることを望んでいないのです。終わってしまうと米軍駐留の理由のひとつが消滅してしまうからです。ことほど左様に、何が何でも自発的従属を続けたいということなのです。
<中略>
天皇は退位に関する会見のお言葉には「私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんにもよく考えて欲しいと思います」との呼び掛けが含まれていました。穏やかな姿の中に、とても激しいメッセージが込められていたと私は理解しています。
つまり戦後構築された新たな「国体」とそれに伴う権益を得てきた人たち(これには自民党、日本会議、経済界の一部も含まれよう)によって思考停止させられた日本人の一部が安倍政権の支持を支えている。ということのようだ
支持の理由の第一位が「他の内閣より良さそう」というのも安倍が「国体」によって自分たちの権益を満足させられる、という錯覚を植え付けられ、とりわけ前回の民主党政権のイメージを悪く刷り込まれてしまっていることが背景になっている。実勢冷静に経済データを分析していると民主党政権は今考えるとそれほどひどくはない。だが「国体」を推進している人たちによって、思考停止させられた日本人の多くがそう洗脳されてしまった、ということらしい
要するに白井氏のいう「国体」によって思考停止、権力への徹底従順を洗脳された国民が日本国民の3割―4割もいるということだ。その中には自民党、日本会議、財界、20代の若者の大半(いわゆる「ゆとり」世代)ネトウヨ等も含まれる。
もう1つ最近の傾向を見るにつけ、こんな記事も目に入った「自由を捨てて「権威への服従」を自発的に選ぶ心理について」
この中で歴史研究科の山崎 雅弘氏の自分の手にした自由を自らの意思で捨て、「上の言うことに疑問を抱かず、ひたすら服従する道」を選んだ戦前のドイツ国民をこのように分析している
ドイツでは、ヒトラーとナチスがいかにしてドイツ国民の心を掴んだかという説明をあちこちの博物館で目にしたが、改めて強い印象を受けたのは、当時の写真に写る「ナチス従属者たち」の晴れ晴れとした笑顔と充実した表情。権威への服従という道を選び、権威と一体化して自分の価値も高まったという錯覚をしてしまったドイツ国民の姿である
これはまさに今ネットを我が物顔で荒らしまくるネトウヨの姿そのものではないだろうか?
思考停止、権力への服従、日本人であることを唯一のプライドとしてヘイトスピーチをばらまく連中
それを考えると日本人に対するここまでの洗脳はかなり前から周到に準備されていたことかもしれない。どこにもいる普通の人間が「国体」に洗脳されネトウヨと化す、そんなことが起きている
考えようによっては安倍政権の不支持がまだ支持を上回っている、過半数が支持しないに回っているのはまだマシだったのかもしれない。「国体」とその権益にすがる連中による洗脳がそこまでいっていなかったということ。
しかし奴らは国民の3割ー4割を洗脳するのには成功している模様だ、これはやはりゆゆしき事態であることに変わりはない
最後に先日ガンで逝去された毎日新聞の岸井成格記者の「国体」に洗脳され、社会正義より自分たちの権益に固執し、権力への従属によって思考停止させられた国民の一部を嘆いた一文である。
「これだけ酷い安倍政権にいまだ三割の支持がある事に危機感を感じる。それは理念に基づいた支持ではなく森友や加計あるいは日報などをめぐりどう見ても社会正義からは許されない事ばかり、なのに国民が正義を追及しないことである。民主主義の危機どころか権力の不正・腐敗に怒りを表さない、むしろ自分もやらなきゃ損・・・それほど社会の質が落ちている気がする」
私も岸井さんと同じ気持ちである。
思考停止と権力への従属願望によってすっかり質が低下してしまった日本人。
私は右翼でもなんでもないが、この現状を見ると「憂国」という言葉を使いたくなる