KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

承久の乱ー真の意味での歴史の変曲点

鎌倉殿の13人、いよいよ最大の佳境である「承久の乱」の場面が来ました。日本史の教科書にも必ず載っているこの承久の乱ですが、来週は「#俺たちの泰時」が大いに活躍する回ですが、最終回でもあり、今確認しましたが15分拡大版だそうです。

クライマックスは衝撃的とか意外なもの、とかいう情報が飛び交ってますが、果たしてどんな風に描かれるんでしょうか?楽しみです。

さて、ここで承久の乱は太古から鎌倉時代までの多くの戦乱の中で全く違った意味があると思います。これは武家政権鎌倉幕府が成立した以上に歴史の大転換点といってもいい事件だからです。

何が従来と違うか?

それは

1.天皇に命令された兵(官軍)と「賊軍」にされてしまった坂東武者と鎌倉幕府軍が戦い、そして官軍が負けてしまった。という点

2.天皇が配流され、天皇の荘園(領地)の大半が没収されてしまった点

3.皇族、公家が武家によって監視、管理され事実上下風にたつことになったこと

過去天皇が配流された例は保元の乱崇徳上皇の例がありますが、これは天皇家皇位継承問題や摂関家の内紛という権力闘争によりおきたものであり、この乱で武士の発言力が増したのは事実ですが、(官軍)対 武士という構図にはなっていません。つまり承久の乱は日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いが起き、そして武家政権の勝利ーそれも圧倒的な勝利ーに終わります。

後鳥羽上皇は「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と院宣の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していましたが、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽しました。当初見込んでいた鎌倉方の離反がなくしかも大軍に膨れ上がった幕府軍に僅かな手勢の朝廷軍に勝ち目はありませんでした。


                   後鳥羽上皇

結果ドラマにも出てきた 藤原秀康、三浦胤義は敗走しました。しかし見苦しかったのは敗色濃厚になった時にそれまで忠節をつくした藤原秀康を始めとする武士の見捨てこの度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下した点、可哀そうなのは朝廷に味方した武士たちです。この辺りラスボスぶりを演じている尾上松也さんが後鳥羽上皇をどう演じるのか来週みものです。

結果は皆さんご存知の通り、首謀者である後鳥羽上皇隠岐島順徳上皇佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました(後に阿波国へ移される)。さすがに天皇の首をはねる、なんてことはできませんが、武家によってこれだけ天皇家が処断されるのは歴史上はじめてといっていいでしょう。

この乱の後、朝廷は幕府に完全に従するようになります。幕府は朝廷を監視して皇位継承も管理するようになり、事実上朝廷を武家が管理するようになります。

つまり承久の乱によって

1.天皇が「治天の君」で事実上なくなる

2.この事件以降武家が朝廷をコントロールするようになる。

これを見れば承久の乱がいかに歴史の流れで大変曲点になったかがおわかりでしょう。

つまり承久の乱によって古代からの政治体制が事実上中世に変更した、と考えてもいいと思います。

これ以降天皇の実権を回復して朝廷の世に戻そうとする後醍醐天皇のような人物が現れますが、後醍醐天皇の「建武の新政」は時計の針を平安時代に戻そうとする時代錯誤のものでしかなく、室町幕府以降も南北朝時代終結により朝廷の力はさらに弱まりました。そして江戸時代になるとさらに権力は極端に制限され事実幕府のいいなりになってしまいます。

それらすべての流れはこの承久の乱に始まったということができます。まさに歴史の変曲点ですね。その意味でも鎌倉幕府成立以上にこの承久の乱の意味は大きいと考えます。

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