歴代最弱の政権の室町幕府ーその理由
室町幕府自体は初代将軍となった足利尊氏が1336年に創始してから、最後の将軍の足利義昭が京都を追放される1573年の間(但し義昭は1588年まで『公卿補任』していたので義昭の将軍辞任の1588年まで室町幕府が続いていたという説をとる人もいる)240年以上、建前上は続いていたが実質全国を掌握していたのは。南北朝の動乱終結(1391年)から応仁の乱(1467年、応仁元年)または明応の政変(1493年、明応2年)までのせいぜい100年くらいで、あとは将軍や幕府といっても名ばかりの状態であった。
鎌倉時代が源頼朝の鎌倉幕府の開府(東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説も有力になっている)から幕府滅亡の1333年よりは長いが、その鎌倉幕府は御家人同士の権力争いはあったものの得宗という北条義時の嫡流を中心に強力な専制政治を断行した。
それと比べても室町幕府の将軍は弱い、権力がないのである。理由は以下の構造を比べればわかる
鎌倉幕府は当初御家人同士の争いや北条時政による源頼家や源実朝の暗殺等で混乱したが承久の乱以降、北条義時の嫡流の「得宗」の事実上の専制政治を確立した。幕府の要職も事実上北条一族が独占し絶対的権力を奮った。逆にそれが討幕の動きを結果的に加速させることになった。
一方室町幕府は将軍の足利氏は黎明期の南北朝の争乱もあり将軍直属の軍事力も疲弊し将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱かった。中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる守護大名がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した(これを室町幕府の守護体制という)
つまり地方が中央から事実上独立する経済力と軍事力を持ち、これが戦国大名へと発展することになる。将軍は有力大名によって支えられる存在となり、これが事実上将軍を有名無実な存在にしていく、
何よりも事実上自前の軍事力を殆ど持ち合わせていなかった、といってもいいだろう
そのため将軍は有力大名の後ろ盾なくしては権力を維持できなくなり次第に有力大名の傀儡となっていく。8代将軍の足利義政の時から将軍が自ら政治を行うことが難しくなり「麒麟が来る」に出てきた足利義輝でさえも、三好一族の操り人形に過ぎず、操り人形であることを拒否したため、暗殺されてしまった、という背景がある、
最後の将軍となる足利義昭も信長の後ろ盾でようやく上洛できたのだが、この義昭も信長の「傀儡」になることを拒否ししため、対立しついには追放されてしまう。
強力な専制政治を確立した鎌倉幕府とそれができなかった室町幕府。それでも弱体ながら形の上では240年も続いた、というのは日本にとって良いことだったのかどうか。(実質後半の殆どは戦国時代、である)
歴代最弱の政権の室町幕府