鎌倉幕府内でなぜあれほど殺し合いが起きたかー基盤がぜい弱な武家政権
久々「鎌倉殿の13人」の話題 鎌倉幕府が成立して以来、頼朝が死んでからの御家人同士の争いが本当にこれでもか、というくらいに続きました。 梶原景時に始まり比企能員、二代将軍源頼家の暗殺、そして京都で時政とりくの息子北条政範の死がきっかけで、畠山重忠とまあ、よくもまあこれだけ次々と、という感じで御家人が滅んでいきます。
牧氏事件では人は死なずに済みましたが、これだけ誰かがいなくなるとそのあとに権力争いが出てくる、
以前源氏の親戚同士の殺し合いも前から続いていましたが、なぜこんなにも武家、御家人同士の殺し合いが絶えないか、というと一言でいえば以下の原因が揚げられるのかもしれません。
1.「絶対的に強い存在の武士」がいなかった
2.少なくとも鎌倉幕府の初期は実質坂東ーつまり駿河、や関東より東にしか勢力範囲がなかった点 (承久の乱以降で初めて全国に支配が及ぶようになる)
といったことが原因でしょうか?
平家も実は武家政権だったのですが、平家自身が実質公家化し、坂東武者を始めとする地方豪族の声など聞かなかったため、気が付けば平家以外はみんな敵、となりそれが滅亡につながりました。
つまり坂東武者を始め武家は政治の主導権を握ったことなど過去なかったのです。しかし頼朝生前はともかく、二代目が初代ほど力がないと、目の前にぶら下がった権力を奪い合おうということで御家人同士の殺し合いが始まってしまったのです。
初めての武家政権ということもあったんでしょうが、権力基盤はまだまだ脆弱と言わざるを得ない状態だったわけです。
そして来週から終盤に入りますが、これはネタバレというより既に史実として伝わっていますので書いちゃいますが、これから和田合戦で和田義盛を始めとする和田氏の滅亡、そしておそらくクライマックスに承久の乱ということになります。
承久の乱は武家政権を維持するためにはいずれ避けられなかった戦いといってよく、これ以降、天皇家及び公家、貴族の力の衰退がはじまります。本当の意味の武家政権は承久の乱で勝利したことで初めて得られるといっていいでしょう。
武家政権が強化される、ということは天皇家や公家勢力が衰退に向かうということです。
つまり
承久の乱:武家政権が初めて朝廷を破る。朝廷は幕府に完全に従属するようになります。幕府は朝廷を監視して皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大漏らさず幕府に伺いを立てるようになりました。朝廷が幕府の支配下におかれる、という構図がこの時初めてできあがります。つまり承久の乱で初めて本当の意味の武家政権ができた、ということもできるわけです。
室町時代→南北朝:鎌倉幕府滅亡前夜、失った朝廷の権力を取り戻そうという天皇が現れます。後醍醐天皇です。後醍醐天皇は足利、新田を始めとする武家勢力に鎌倉幕府を滅亡させ、建武の新政を始めますが、この「新政」は時計の針を平安時代に戻すことにほかなりませんでした。そこで起きたのが南北朝時代で鎌倉幕府滅亡後60年続きます。結局もはや戦う力がなくなった南朝を足利義満が統合しましたが、天皇がかつての力を持つことはありませんでした。
戦国時代:大名同士の戦が延々と繰り返される時代。歴代最弱政権といっていい室町幕府は守護大名の台頭で有名無実となり、朝廷も生活の糧に事欠くありさま。朝廷の力はもはや形ばかりとなりました。
江戸時代:この時初めて盤石な武家政権ができたといってもいいでしょう。鎌倉幕府と室町幕府を反面教師にして大名同士の戦を無くす政策を徳川家康は取りました、かくして250年の長きにわたって一度も戦争が起きなかった江戸の太平の世ができたわけです。
最初の武家政権から400数十年かかって盤石な政権ができた、と考えれば本当に頼朝の理想の実現は長い時間がかかったといっていいかもしれません。