鎌倉殿の13人ー頼朝の死の謎ー暗殺説も絶えない殺戮の限りを尽くした男
鎌倉殿の13人、いよいよ今回で頼朝が死にました。
義経、範頼という実の兄弟から叔父にあたる源行家、従兄にあたる木曽義仲とその子の義高、さらに奥州藤原氏、平家といわば殺戮の限りを尽くしたといっていい源頼朝(もっとも先週亡くなった源範頼は「実は殺されていない」説も有力な説として存在します。)
源氏の中でも河内源氏といわれる清和源氏嫡流は頼朝の祖父の為義以降、親戚同士の殺し合いが絶えず、天寿を全うした人間は殆どいない、という事実があります。この頼朝の死も当時の源氏に関する貴重な史料となっている『吾妻鏡』にも頼朝の死に関する記載が全く無いことから、逆にさまざまな説が存在します。
『吾妻鏡』は「落馬」、『明月記』『愚管抄』『百錬抄』は「病死」、『猪隈関白記』は「飲水の病」、『承久記』は「水神に領せられ」、『保暦間記』は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記していますが、どれも決めてはありません。
また落馬をしたのはどうやら事実のようですが、落馬が原因で死亡したとは書いておらず、ドラマでは落馬してすぐ死んだかのように描かれていますが、建久9年(1198年)12月27日に落馬して建久10年(1199年)1月13日に死去とされていますので、実際には落馬してから死去まで2週間半もあります。(しかもドラマでは描かれていませんでしたが、死の2日までに出家しています)それを考えると落馬が原因の死亡とは考えにくいですね。何らかの原因で落馬したわけですが、問題はそれが体調の変化によるものなのか、暗殺によるものなのかは現代では確認のしようがありません。
享年52歳、兄弟の中では一番の長生きではありますが、果たして死因は病気なのか、暗殺なのか、暗殺であれば河内源氏の嫡流で自然に寿命で亡くなった人物は一人もいない、ということになりますが、果たしてどうでしょうか?
亡霊説も呪い説も後を絶ちません。
まあこれだけ殺した人ですからね
とはいえ、頼朝が死んだことで殺し合いがこれで終わり、とはならないんですね。
寧ろ鎌倉幕府内の殺し合いはこれからが本番です。
正直、鎌倉市内のあちこちで有力御家人が滅亡していますので、それを考えると結構鎌倉市って怖いかも
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