KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

夫婦別姓やLGBTの反応に見る日本人の多様性不寛容ぶり

既に報道されているように昨日最高裁夫婦別姓認めない規定 合憲の初判断を最高裁が示した。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151216/k10010342841000.html

まあ確かに

「名字が改められることで、アイデンティティが失われるという見方もあるが、旧姓の通称使用で緩和されており、憲法に違反しない」と指摘しました。そのうえで、「夫婦別姓については国会で論じられるべきである」

と論じているように明治からの民法にそう規定されているから、そういわれればそうかもしれないが、この最高裁判断でこの件について勝ち誇ったように夫婦別姓を批判する保守系の論評記事にはやはり違和感を感じる。

そもそもそれら一連の記事を読んでいるとどうも夫婦別姓の制度に関してある種思い違いをしているように見える。

それは夫婦別姓」が規定されることで、従来通りの夫婦同姓を希望する人まで「夫婦別姓」に無理矢理させられてしまう、などと思い込んでいる節がある。 日本中の夫婦すべてが別姓にすべきだと
しかし「夫婦別姓」を推進するどの市民グループの主張を見てもそんなことは云っていない。

要は従来通り夫婦で同じ姓を名乗りたい人は名乗ればいいし、「夫婦別姓」にしたい人はそれができるようにすればいい。
個人の選択の問題である。
ただそれだけのことではないか?

最高裁夫婦別姓」を仮にこの裁判で認めたとしても、日本中の夫婦が別姓になるわけではない、

にも関わらず「夫婦別姓」に否定的な人はあたかも自分が無理矢理「夫婦別姓」にさせられてしまうかのように過剰反応し、「家族を崩壊させる」とか従来の家族観による価値観の押し付けをしているように見える。

どうもこの件の保守系の人の反応は LGBTに関しても同様な反応をしているように見える。

先月より渋谷区が「同性パートナーシップ証明書」発行を開始する条例を施行した時にこれもおもに保守系の人から拒絶反応とも思われる反応が相次いだ。
■渋谷区条例「日本の価値観否定」 練馬区議が議会で批判
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201512/CK2015120102000130.html


同性婚をした人からみれば「余計なお世話」「私たちのことは放っておいて」というのが本音ではあるまいか。

この問題も「夫婦別姓」の時と同じだ。 別にこの条例が施行されたからといって日本中のカップルが同性婚を強制されるわけじゃない。だがどうもその価値観を拒絶、否定する人の中には何か自分がそれを強制されるのではないか、などという妄想に近い受け止め方をしているように見える。そして過去の価値観がうんたらかんたら、と自分たちの価値観を押し付けるありさまだ。今ネットにはこの手の記事が多すぎる

やりたい人はやればいい、 他人は他人、自分は自分
日本人というのはどうしてそういう考え方ができないのだろうか?
私自身は別にLGBTの志向はないが、仕事上でつきあっている人物の中にはLGBTの人がいる。しかしだからといってそれがその人を差別していいという理由にはならない。それどころかアメリカの企業などにおいては「性的志向」の違いで差別することは、肌の色や宗教で差別するのと同じくらい企業コンプライアンスの禁止事項として規定されているのが普通である。

ここで一つ気になるのは世界中がどんどん多様化して、多様した志向を容認していることに対し、日本社会はどんどん多様化自体を否定する方向に向っている点だ。

夫婦別姓」にせよLGBTにせよ個人の志向の問題であり、それに対して他人がとやかくいう筋合いはないはずだ。寧ろ多様化している志向に対して法律の整備が著しく遅れている点が問題だ。そしてその多様化に対応する法律を整備しようという動きだけで過剰なまでの拒絶反応が噴出し、「従来の価値観」の押し付けが始まる。
そこには「自分の理解の範囲を超えた価値観」の登場にただただ恐れ、拒絶し自分までその「理解を超えた」価値観を強要されるのでは、などという強迫観念、妄想にかられて「自分の理解の範囲を超えた価値観」徹底的にたたき否定するという構図が見て取れる。

普通に考えれば「やりたい人はやればいいんじゃないの?」で本来済む話だ。

価値観がますます多様化している現代に昨今の日本はその多様な価値観そのものを否定しようとしているように見える。これはチャンネル桜のようなデマサイトの情報のみ受け入れ、多様性を一切認めないネトウヨがこれだけ幅をきかせていることからもわかる。
日本という国全体がファシズム化しているのだ。

正直いって昨日の最高裁の判断はその多様化の流れに完全に水を差すものでいただけない。確かに民法からみで考えるとそうなるのかもしれないが 

多様化を受け入れない社会は世界から見てもあまり尊敬されるとは思えない。多様性に対する不寛容な体質が続くと今後海外ともさまざまな問題が起きるであろう。