西郷どんー志半ばで倒れた稀代の名君 島津斉彬ー明治維新の基本コンセプトを残す
久々西郷どんの話
今回でついに島津斉彬が急死ということで急展開しますが、やはりこの島津斉彬については一言書かなければならない、と思いました。
松平慶永(福井藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)とともに幕末の四賢侯の一人と称せられ、欧米列強が迫っている中 当時最新鋭の武器をそろえ、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造等、後の殖産興業の流れを作りました。これは明治政府が後にとった政策、富国強兵、殖産興業の基本コンセプトとなっていきます。西郷も大久保もこれを見て明治維新を推し進めるようになります。
島津斉彬が藩主だったのは、父斉興の妨害もあって僅か7年余りでした。しかしその7年の間に後の世に残したものは大きかったといえます。
1.日本が植民地化されないために富国強兵、殖産興業の基本コンセプトを提示
2.西洋の技術の取得を奨励した
3 西郷、大久保 といった人材の育成
特に2は島津斉彬が理化学に基づいた工業力こそが西洋列強の力の根源であることを見抜き、好奇心に富んだ人物でアルファベットを学んだり、写真に興味を持ち撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心に富んだ人物であったようです。
斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来であったと伝えられています。
特に西郷を重用し自分の考えを斉彬の手と足として動くことによって日本のこれからのあるべき道というものを叩き込んだということができましょう。それが後の時代での斉彬の精神を生かすことになります。
今日の西郷どんで 「おまえはわしになれ」
これは斉彬の遺志を継げ、という意味にも受け取れます
斉彬はドラマにも描かれていましたが藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを準備、その準備の最中急死します。
死因は、当時日本で流行していたコレラという説が有力ですが、ドラマにも時々描かれているように嫡子がいずれも夭逝していることとも併せ、父・斉興やドラマでは井伊家(?)の陰謀という噂もありました。いずれにせよあまりに急な死去から毒殺説が消えません。歴史作家の何人かは毒殺説を取っている人もいます
また歴史に「たら、れば」を云っても仕方ないことはわかってますが、斉彬がせめてあと10年長く生きていたら幕末の歴史は全く変わっていたかもしれません。
幕末の四賢候の一人の松平慶永(春嶽)は「大名第一番の御方であり、自分はもちろんのこと、水戸烈侯、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない」と語ったといわれました。
西郷隆盛ら後の維新志士らから慕われ、西郷などは斉彬の死去を知ると号泣し、後を追って殉死しようとしたほどですが、島津斉彬の精神は西郷隆盛や大久保利通に継承されました。
「おまえはわしになれ」
そうやって斉彬の精神は引き継がれます。日本の歴史上でも稀有なほど聡明な人物、志半ばで逝去したことが悔やまれます