KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

坂の上の雲を見てー封建社会の脱却の明治と「封建化」する現代の日本

昨日はさる音楽コミュニテイの忘年会だったんですが坂の上の雲は予約録画していましたので見れました。日清戦争という第一部の佳境でしたが戦場シーンの極めて少ないどこかの戦国物と違い戦争の様子がよく描かれていたと思います。天地人があまりにひどかったので「坂の上の雲」が余計に光って見えますが、それにしてもあんなにひどいできのドラマなのにあれだけの視聴率が得られているというのは私には理解不能です。まあテレビの世界は視聴率が全て、NHKとて例外ではありません。視聴率が高ければ「官軍」ですからね。

ところで坂の上の雲を見て感じるのは明治という時代は、法律の面では現代の日本国憲法より遥かに自由もないし、立憲君主憲法ですから「封建的」な面は現代より強いはずですが、明治に生きた人間の方が遥かに自由で希望にあふれているのがよくわかります。これは明治政府の「富国強兵」「殖産興業」という方針の元、どんどん国民にチャンスを与え自らの努力によって成功を手に入れることを寧ろ奨励していた時代背景もあります。

明治政府は初期は大久保利通、後半は伊藤博文山縣有朋、といった江戸時代の下級武士によって作られた政府であり、「四民平等」の名のもと誰にでも努力次第でチャンスが訪れる社会を作りました。坂の上の雲の主役の秋山好古秋山真之も小藩である松山藩の下級武士の極貧生活から陸軍大将、海軍中将にまで出世する模様を描きますが、そうした彼らの生き方が本来もっと法的には自由で機会に恵まれているはずの現代にあまりリアリテイが感じられないということに愕然とします。

現代の日本は非常に閉塞感があり、「ゆとり」教育などという愚民化政策により金のある人間でしかまともな教育を受けられない社会になっています。富裕層に一層富が集まりやすいようにして格差は固定する。効率的な社会運営ができるように階級流動は極力避ける政策が取られ、低所得者層の不満は当面は「自己責任論」を喧伝する事で相殺させる社会、

これが現代日本の姿です。明らかに封建社会へ今の日本が向っているとは思いませんか?

特にいまだに根強く残っているこの「自己責任論」が大きな問題です。

この「自己責任論」は社会より自分に怒りが向くように政府、財界そしてマスメデイアより刷り込まれてしまっているー洗脳されているーもので、政治を始め社会のシステムに対して疑問を呈す人間に対し、「社会のせいにするのは弱い人だ」とか、「問題をすりかえる人だ」というような言説をあたかも正論であるかのようにまかり通らせてしまった論法です。これはどんなに理不尽な要求であっても、企業や行政その他の社会のシステムが要求してくることを、とにかくこなしていかないとという強迫観念を植えつけました。

この刷り込みは小泉政権から強力に推進されてきたことは周知の事実で、これは現代に実質的に新たな階級意識、新たな封建社会を作り自分たちの特権、富を永久化したいと考えているある勢力によって綿密に計画され、実行されたものです。いわゆるある特権意識を持った勢力によるジョージオーウエル顔負けの封建的な管理社会の構築です。

「自己責任論」というのは弱者切捨てを正当化し、そして国民が社会のシステムや不条理に目を向けさせないための便利で有効なツールとして権力者たちに使われました。そしてその「自己責任論」をいまだに正義だと考える人間が社会の相当数いるということに私は恐ろしさを感じます。

あるブログの記事を引用させてもらいますが

個人の貧困の問題が「自己責任」でないというのならば、何のせいだというのだ。おそらく「社会」の責任だというのだろうが、その「社会」(≒「国家」「政府」でもいいだろう)は、何が支えているというのだろう。結局、

「社会」は無数の「自己責任」が支えているのではないか?

<中略>
「自己責任」論が"現実社会ではまだまだ根強い"のは、「自己責任」を果たして「社会」を支えているということに対して、「社会」を構成する大多数(主に中産階級)がリアリティを持っているからだ。

これを「自己責任論」というものを持ち出して企業の職場で「リアリテイ」を感じるように仕向けられているということになぜ気づかないかな、と思いますね。社会のシステムに目を向けさせないで、社会の全てを「自己責任論」とという言葉で「洗脳」すれば権力層のやることの全てが正当化される。そういう社会のシステムが作られていることに首に縄をかけられた人たちは気づかないようになっているようです。

実はこの「自己責任論」にはもう1つ仕掛けがあります。そこには情報化社会のパラドックスが背景にあります。

実は情報化社会といわれていますが「他人とコミュニケーションを取れない」人間が増えています。人との面と向ったつきあいが苦手(うざい)と感じている人だちで、他人とは距離を保つー「無関心である」ということをとても「心地よい」と感じる人たちです。その「心地よい」無関心を社会の問題や社会的弱者の実態などの情報が入るとその「心地よい」無関心が阻害されると感じてしまうのです。その「心地よい」無関心を正当化するのが「自己責任論」でそれを持ち出すことで、自分は「許されている」、自分には責任はない、免責されているという風に感じることができるのです。当事者の自己責任になるわけですから、自分は何もする必要がない、心を痛める必要もない。そうやって自分は何もしないことが正当化されるわけです。だからこそ被害の実態を知らせる内容の記事やコメントに対しては過剰なまでに反応してしまう、なぜならそうしたコメントは罪悪感を思い起こさせるためだからでしょう。

実はこの状況は「自己責任論」を宣伝したい人たちにとっては非常に都合のよい状況を作りました。かくしてそれを最大限利用し「自己責任論」をあたかもカルト宗教のように正義であると洗脳されている人間を大量に生み出し、それが現在にいたっても根強く存在しているわけです。

あえていいますが「自己責任論」を持ち出す人たちはこういう特権意識の人たちに洗脳され彼らの道具と化していることを自ら表明しているようなものです。

社会のシステムがおかしいことに気づくことを、「社会のせいにするのは弱い人だ」とか、「問題をすりかえる人だ」と思わせてしまう。そして寺脇何がしの行なった「ゆとり」教育とかで愚直で従順な国民を作る。(そもそも常識レベルの知識すらない人間にどうやって「考えろ」というのだろう、そんなことができるわけないことを百も承知で寺脇は「ゆとり」教育を強行した)

こんな社会ほど権力者にとって都合のよい社会はありません。これこそがまさに小泉政権を使って特権意識を持った勢力が目指した社会そのものです。

そして残念ながら9割型までこの目論見は成功しています。ただ今の社会「何かがおかしい」と思って政権交代が起きた、それが特権意識を持った勢力の殆ど唯一の計算違いかもしれません。(あるいは下手すりゃこれすら折込済みだったりして)

これは実に長い時間の間、だいたい80年代初頭の中曽根政権あたりから水面下で準備され綿密に計画され実行に移されたものだと思います。

明治時代は坂の上の雲の舞台の日露戦争まではチャンスにあふれた社会であり多くの先駆的な人物を生みました。ただ坂の上の雲にもありますように日露戦争から日本はおかしな社会に移行します。

司馬遼太郎は太平洋戦争直後の日本を見て「日本はいつからこんなバカな国になったのだ」と書いていました。もし司馬遼太郎が今生きていたら同じことを云っているのではないか、そう思ったのは私だけでしょうか?