9月は個人的にちょっといろいろあってブログ更新どころの話ではなかったんですが、8月末より「麒麟が来る」が放送を再開し、この時代について書きたかったことがなかなか書けませんでした。
さて、長良川の戦いで斎藤道三に味方したため、美濃を追われ朝倉義景を頼って越前(福井)に行ったというのはどうやら事実らしいのですが
『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の天正8年(1580年)7-8月の旅行記、随行者が記述)
「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人であったが、越前国の朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた。そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた
つまり朝倉義景の庇護下にあり「長崎称念寺(福井県坂井市)の門前に10年間住んでいた」そうで、朝倉氏に仕官はしていない、というのが専らの説。
もしそうだとすると、ドラマでは朝倉が将軍足利義輝に鷹狩の鷹を献上するために十兵衛光秀が使者として出向いたシーン(第19回ー「信長を暗殺せよ」)、というのはおそらく作り話と思われます。いくら足利将軍家の力がなく、朝倉自身が京都に出向けなかったとしても一介の浪人を使者に向けるというのは将軍に対する礼を失することになるからです。普通そういう場合は家老クラスの重臣が行くのが通例です。
その後も何度か京都や諸国に行っているシーンがありますが、ドラマの脚本上の作り話だと思われますが、仮にそうだとすると実はわからない点も出てきます。
それは足利義昭が朝倉を頼って敦賀に逃れた時に、明智十兵衛光秀は光秀は「義景は頼りにならないが、信長は頼りがいのある男だ」と信長を勧めています。つまり朝倉家の家臣でもない人間の意見を征夷大将軍にこれからなろうとする人物が取り入れた、ということになります。いくら足利義昭が困っている状態とはいえ、です。
実際このあと1568年7月17日『細川家記』では斎藤氏から美濃を奪取した信長に対し、上洛して自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請したようで表向きの使者は細川藤孝でしたが信長への仲介者として光秀が登場しています。歴史の史料に明智光秀が初めてまとまった形で登場しています。
ということは、越前にいる間単なる無為の時間を過ごしていたのではなく、信長との接触もあったと考える方が普通です。勿論信長の正室の帰蝶が光秀の従妹ということがあったとしても、仲介役ができるとなると信長と義昭の信頼を得ていなければできないことです。
となると、ドラマで京都に何度か行ったというのもまんざら作り話ではない?
のかもしれません。普通に考えればただの浪人にそんなことができるはずがありません。
とはいえ、幕末の薩長同盟を仕掛けたのは土佐の脱藩浪士の坂本龍馬、という史実を思い出しますが、明智光秀もただの浪人ではない、何かのノウハウや人脈があった、ということなんでしょうね。
来週は信長の上洛で、光秀も信長も歴史の表舞台に立ちます。
いよいよ大河ドラマの本筋に入るようです。楽しみです