会津藩士の「埋葬禁止令」覆す新史料で「定説」に異を唱えたことが正しいことが証明された件
ようやく一段落してブログ記事を書く余裕ができたのだけれど、殺人的な多忙の時期に当ブログの記事に関連する歴史的事実が報道されました。
■戊辰戦争、会津藩士の「埋葬禁止令」覆す新史料見つかる
会津戊辰戦死者埋葬の虚と実―戊辰殉難者祭祀の歴史
虚構だった「埋葬禁止令」!新発見史料で今、明かされる50年目の真実。会津藩士は埋葬されていた!
ご存じの方もいるでしょうが当ブログにはこういう記事があります
■八重の桜ー鶴ヶ城開城ー会津戦死者埋葬についての「定説」に異を唱え
kyojiohno.hatenadiary.comきっかけは歴史研究科の大山格さんのブログ記事からですが、大山さんは大山巌元帥と会津の山川家から嫁いだ大山捨松の子孫で、そのためこの方は会津と薩摩両方の血をひかれています。現在大山夫妻の墓地の修復作業を行われております。その分析が実に冷静で客観的な分析だったので私は極めて信頼できるものだと考えておりました。
■なぜ遺体は埋葬されなかったか?
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/maisou/maiso.htm
私の母方も会津藩士の流れを組む家で、会津藩士の埋葬を長州がさせなかったといった話を聞いたことがありますが、正直にわかに信じられませんでした。
実際に「遺体埋葬禁止」ではなく「遺体埋葬の遅延」は生じていました。しかしそれは次の大きな理由からです。
1.会津戦争当時の会津領内の治安の悪化、農民一揆や略奪の頻発による作業の遅延
2.冬になり降雪が多く遺体の埋葬作業が遅れたこと
この二点です。
「遺体埋葬の遅延」の象徴的な存在は飯盛山で自刃した白虎隊の遺体の埋葬です。白虎隊は会津の悲劇の象徴的な事件として伝えられたためにこの「遺体埋葬の遅延」がかなり曲解されてしまったようです
それにしても現代のネット時代でもそうですが、こうした不確かな情報ーデマーを鵜呑みにして子孫代々まで受け継ぐということが昔から行われたというのは残念であります。
野川信一さんのこの本、ご興味ある方は是非ご一読を