KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

オウム真理教事件の背景から目を背けずに再検証を!!

昨日逮捕されたオウム真理教の逃亡犯、菊池直子容疑者、顔はよく見えませんでしたがすっかりやせ細っていたとのこと。おそらく逮捕された本人が一番ホッとしたんじゃないでしょうか?17年もの長い間逃亡していて精神的負担にならないはずがないですから、とにかく無事逮捕できてよかったと思います。

あと残り一人の高橋克也容疑者もこれを機に出頭することを勧めたいが果たして... しかしこれ以上逃亡を続けても何にもならないと思いますし何よりも逃亡している本人も辛いはずです。

17年前の1995年は自分にとっても人生最悪な年の1つだったんですが、それはこのオウム真理教事件も大きく影響しています。まず地下鉄サリン事件の前日に私は築地の某広告代理店で打ち合わせに行ったんですが、もしこの打ち合わせが一日伸びていれば自分も巻き込まれた可能性があります。

しかしそれよりも何よりも私自身がいまだに気になっているのはこの一連のオウム真理教事件に対する世間の反応です。

この事件に対して世間はロコツなほどの拒絶反応を示しました。それも過剰なほどにヒステリックなものだったといっていいと思います。それはヨガ、ヒーリング その他の精神世界が「オウムと同じようなもの」として忌避され徹底的に否定の対象になったことからもわかります。私事ですがこの時好調だった私のヒーリング音楽のシリーズがこの事件を境にパタっと売れなくなり廃盤の憂き目にあったという辛酸もなめました。

この事件に関してはマスコミを初め「知識人」といわれる人たちの反応は、この問題の深層に踏み込むことをせず目を背けようというものでした。オウムの実行犯の大半は元々は「普通の人」であったはずです。決して「特殊な人たち」ではありません。それがなぜあのような破滅の道に進んでしまったのか、そこの部分の検証は殆ど行なわれずにあたかも「臭いものに蓋をする」ようにこの事件を「忘れよう」という反応が専らでした。

しかしこの事件は私はいろんな意味で「あまりにも日本的な」事件だったと思います。だからこそ世間は露骨な拒絶反応を示したんでしょうが、それではこの事件から何の教訓も学ばず事件を再発防止に対する何の手もうたないことになります。あえていいますがこれは愚か者の所業です
これでは放っておけば同じような事件がいずれまた必ず起きてしまうことになります。

そのためにもこれを機会にこの事件から目を背けずに改めてこの背景原因を冷静に分析し、再発防止に役立てる必要があります。

実際問題として「ミニ麻原」第二第三の「麻原」になりかねない人物が既に存在しています。誰とはいいませんが、そういう連中の暴走を食い止めないといけません。

ちなみに私の友人でマーケテイングアドバイザーの井上秀二さんが精神医学者の香山リカさんの文章を引用しながら実に的確な分析をしていますのでご紹介させていただきます。

香山リカのほどほど論のススメー「ノマド」にとまどう「いい話にはウラがある」という感覚がなくなっている?
http://diamond.jp/articles/-/19288
香山さんの以下の文章を元に井上さんの記事がある。

素直なのは悪いことではありませんが、なぜ「そうはいってもキレイごとだけじゃなくて、ウラもあるだろう」と思えないのでしょう。

 要因の一つに、彼らが日常的に接しているSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は対象に直接つながっているため、自分がその対象の全部を見ている、理解しているような錯覚に陥ってしまうことがあるかもしれません。

 また、デジタルでは少ない文字数でいいきるトーンになりやすいため、物事を短絡的に捉えてしまう傾向も強まっているように感じます。

 つまり、物事は多面的であり、複雑な事情や経緯があるということを想像できない人が増えている気がしてならないのです。だから、逆にネガティブな情報に接すると、途端に拒否反応を起こしてしまうケースもあります。

 以前、女子学生たちに、「仕事と結婚・育児の両立っていったって、現実にはいくら頑張ってもうまくいかない人だっているんだよ」という話をしたところ、「せっかく頑張ろうとしているのに、ネガティブな話は聞きたくない」「ガッカリしてやる気が失せてしまった」という反応が返ってきました。

 ともかく夢を追いかけたい、夢を見たい、あるいは見せてほしいということなのでしょうか。

 というふうに考えると、今の若者が抱える「自分はこんなはずじゃなかったのに」といった不本意な思いや、閉塞感は想像以上に深いのかもしれません。

■「ネガティブ耐性」の弱まりは「批判精神」の衰退と一緒?
http://blog.goo.ne.jp/sinoue0212/e/9bebbfdcee54298a808f59bda7486e76

今日、この話題が気になったのは、昨日逮捕された某新興宗教団体の元(?)女性信者の逮捕の報に接したからだ。
95年に大規模テロに走った“カルト”集団の問題は、忘れることなく検証していく必要がある。
教祖は別だが、当時の幹部を含めほぼ全ての信者たちは、“ごく普通の人達”だったはずだ。
それが、大きな世の中の流れの中で、ほんのちょっとしたことから、破滅への道を歩んだわけだ。
そして、根源的な“病巣”は、例外的なカルト集団でも、普通に社会生活を送る私たちでも同じものを内包している。
例外的な事件が、例外的に見えるのは、インパクトがあまり大きいためで、それゆえ、自分達も内包している“病巣”に気づかない、いや、眼をそむけたくなる、ということだ。
それが、あの事件を“忘れたい”“風化させたい”という集団的無意識を醸成し、何十年後かに同じような事件を引き起こさせるわけだ。

私には、香山が接してきた多くの「疲れ果てた」人達と、カルト集団の幹部たちに同じようなものが見えてならない。
そんなことになったのは、“いい人”であるだけに、「批判精神」が涵養されなかったからだ。
「批判精神」とは、世の中、社会、つまり、拙著『コンテンツを求める私たちの「欲望」』で言うところの「大きな世間」に対するものだけではない。
自分が属するゆえにかけがえのない「小さな世間」に対する批判精神だ。
もっと言えば、自分自身の「信念」に対する批判精神も必要だろう。

ポジティブでもネガティブでも「100%」の盲信・否定は危険ということだ。

私は「ソーシャルネット」に関する論調などが代表的と思いますが、今のネットに「ネガテイブさ」「批判精神」というものを極端に嫌う風潮が確実にあると思います。

しかしそれは非常に危険なことだと思います。インターネットというすばらしいツールを人類は手にしましたが、それに伴う「負」の部分は確実に存在します。しかしその「負」の部分を指摘することをあたかも自分が誹謗中傷されたかのように過剰反応する輩は確実に存在します。かくして「ネット万能論」のようなものがあたかも正論であるかのように罷り通る(困ったことに「ネットマーケテイング」やIT関係者がこの風潮を煽る傾向があります)ことになります。

しかし「批判精神」を持つことは少しも悪いことではありません。いや寧ろ「批判精神」を持たないということは極めて危険なことだと思います。結局そういう風潮が「思考停止」や「想像力の欠如」につながっているような気がします。それを理解できない人間が今多すぎるような気がします。

私はオウムで破滅してしまった信者の多くがそういった「批判精神」を捨ててしまい、断片的な情報で「全てを理解した」かのような錯覚に陥ってしまったことも背景にあるような気がしてなりません。

インターネットやソーシャルメデイアの中で「ネガテイブさ」「批判精神」というものを極端に嫌う風潮があるというのは、またオウムのような事件を起こさせる潜在的な可能性があるような気がします。そのような風潮は改めるべきではないでしょうか?