軍師官兵衛ー先週から高松城水攻めの話が出てきていよいよ本能寺の変前夜となります。
毛利の家臣清水宗治が城主を勤める備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城、ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かったため、官兵衛が中国の春秋時代に晋の智伯が晋陽城を水攻めしたことからヒントを得て考え付いた策で、当時としては画期的な戦法でした。官兵衛は秀吉に進言し堤防工事に着手した。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものであったといわれています。
蛙ヶ鼻堰堤跡
実際の工事は官兵衛の指示のもと、蜂須賀正勝(小六)、浅野長政等が行いますが、これだけの規模の土木工事は相当の専門知識がないとできないと思います。
工事は着手からわずか12日で完成。梅雨の時期もあって降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現。高松城は孤島と化してしまいます。
秀吉や官兵衛に代表される戦国大名の1つの特徴として「土木建築技術に長けていた」ということができます。これは戦国時代に、弓矢の時代から槍や鉄砲を使う重装備の武器がどんどん変わっていきましたが、それに伴いちょうど現代に人工衛星やミサイル等いろいろな文化、建築技術などを進歩させるのと同じように、戦国時代も武器をつくる技術が、農具とか、灌漑、治水などに利用された経緯があります。その中で築城の技術も戦国大名が生き残るための技術として自然に身についたのかもしれません。
初期の戦国大名にはこの傾向はみられませんが、だいたい斉藤道三や武田信玄あたりから、戦国大名は土木建築技術を身に着けたようです。
その中でも秀吉はとびぬけてそういう技術に秀でていたようで、それが秀吉の出世にも大きく寄与しました。官兵衛も同様に築城の名手として知られ、今回の高松城水攻めにも見られるように高度な土木建築技術を身に着け、築城にも高度な建築技術を所有することが天下どりにも大きく寄与することになります。
戦国大名の中で築城の名手と呼ばれる大名です。
・豊臣秀吉ー 秀吉は間違いなく当時の大名としても傑出するほどの高度な建築技術を持っていました。
大阪城、伏見城、長浜城、そして世に云う「一夜城」こと墨俣城*注
*注小田原北条氏攻めの時の秀吉の戦法ですが、どこまでが本当かわかりません。
・黒田如水(官兵衛)ー 官兵衛も築城の名手といわれ、既に秀吉のために姫路城を普請していますが、居住した中津城や福岡城のほか篠ノ丸城、名護屋城も普請しています。
藤堂高虎
・藤堂高虎ー 戦国大名で築城の名手といってこの人の名前を揚げないわけにいきません。建築技師としても一流でいくつ城を設計したか正確にはわからないほどです。
自らの居城として宇和島城、今治(いまばり)城、伊賀上野城、津城 さらに伏見城、二条城、江戸城、日光東照宮等
加藤清正
・加藤清正ー 藤堂高虎と並び称される築城の名手。秀吉子飼いの大名であることから秀吉から相当建築技術を学んだと思われます。自らの居城の熊本城が有名で、後に西郷隆盛が西南戦争にて「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。」という有名な言葉を発することになります。他に宇土城、玖島城等
尚、築城においては多くの人出が必要となりますが、当時の大名は高めの給金を与えていたため、農民でもよろこんで仕事したそうです。今でいう公共事業といっていい内容ですね。