KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

平家、源氏、北条、鎌倉殿の13人ー滅んだはずの氏族ーでも僅かに生き残り子孫を残していた者たちがいた。

今年度の鎌倉殿の13人、三谷幸喜氏の練りに練られた脚本もあり面白いドラマであったと思いますが、まあそれにしても容赦なく粛清、滅亡の様子が描かれてだいぶげんなりしたのではないでしょうか?

大河ドラマは歴史を素材にしたとはいえ基本的にはフィクションです。しかし氏族の滅亡を800年以上までの話とはいえこれでもか、と見せられるとかなり暗くなるでしょうね。

しかし確かに滅亡し権力の座が追放された一族も僅かながら生き残った人たちがいます。なかには驚くなかれ、現代まで存続している家系があります。それら「滅亡したはずの一族」の生き残った人たちをみてみましょう。

まず歴史上に源氏、平氏といいますがいずれも臣籍降下から武士として各地に定住したために一口に言って源氏、平氏といってもいろいろあります。その中でも一度権力を握り滅亡した氏族を中心に揚げます

平家

桓武平氏の中の伊勢平氏は通称平家と呼ばれますが、実は全ての平家が壇ノ浦で滅んだわけではありません。同じ平家でも生き残った人たちがいます、

平頼盛ー清盛兄弟の中で壇ノ浦の戦い後も唯一生き残った人物。後白河院に近く平家が都落ちしても京都にとどまり鎌倉の頼朝の連絡役もやっていたそうです。そのため壇ノ浦後頼朝に厚遇され宮廷内に地位を保ちました。子孫は実朝の左近衛大将任官に際し、鎌倉に下向し鶴岡八幡宮拝賀に付き従ってと伝わってますが、鎌倉時代血筋が耐えた模様です。

平貞能平氏譜代の有力家人で嫡男の平重盛、次男の平資盛の補佐役を任されました。清盛死語の当主となった宗盛の都落ちの方針に賛同せず別行動をとります。貞能は逃げ去った一門の有様を嘆き、源氏方に蹂躙されぬように重盛の墓を掘り起こして遺骨を高野山へ送り、,九州に転戦するも思うような成果が得られず、一時出家します。平氏滅亡後に貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降します。宇都宮朝は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願し認められます。その後の消息は不明

平時忠平清盛の継室である平時子の同母弟。公卿として活動。清盛の継室の親族ということもあり、政権運営に深く関わります。後白河法皇三種の神器の返還を求めた折、時忠は壇ノ浦で捕虜となり三種の神器の神鏡を守った功績により減刑を願いで死罪は免れます。時忠と嫡男の時実の一族は流罪となり能登国の配地で生涯を終えます。平時忠の子、平時国の子孫は代々この地で農業や塩業などを営み時国家として現代も血筋を残しています。平家一門で現代まで続いている家系があったというのが驚きですね。

源氏(河内源氏嫡流

清和源氏といっても頼朝の河内源氏嫡流以外に、武田氏、佐竹氏、足利、新田氏と様々ですが、ここでは河内源氏に限定します。尚、織田信長に滅ぼされた武田氏は徳川家康の尽力で高家として復活し、その他足利の庶流で赤穂浪士に討ち入りされた吉良氏、今川氏、新田庶流の山名氏、岩松氏も徳川家康によって高家という形で家名を保ち明治維新まで続いています、佐竹氏や細川氏戦国大名から江戸時代まで生き残り現在まで続いています、細川氏からは1993年に総理大臣として細川護熙氏が出ています。

頼朝嫡流

まあ源氏は 実朝の暗殺と暗殺者の公暁の謀殺で「誰もいなくなった」状態のはずだったのですが、実は政治の表舞台には出なかったものの僅かながら生き残った人たちがいました。

阿野氏ーあれ?阿野全成と息子の時元はいずれも殺されたのでは?とお思いでしょうが、実は阿野全成には娘がおり、公佐に嫁した後、公佐と全成娘の子孫が代々これをそのまま相続し公卿に列しました。子孫は後醍醐天皇後宮に入って後村上天皇を産みます。しかし南朝から一族は分裂、血筋は室町時代で途絶えます。江戸時代から既に全成の血流はないものの復活。明治維新まで続きますが息子たちがことごとく太平洋戦争で戦死。事実上家名は途絶えています。

土佐吉良氏 鎌倉殿の13人には出てきませんでしたが、頼朝の同母弟の希義の遺児・源希望が頼朝に取り立てられ、土佐の吉良荘を与えられ土佐吉良氏を称したと伝えられます。室町時代から戦国時代まで存続しますが、天文9年(1540年)に滅亡します。

吉見氏 源範頼の子孫にあたりますがドラマでは源範頼は頼朝に暗殺されたように描かれていますが、範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えたという説や、武蔵国横見郡吉見の吉見観音に隠れ住んだという説などがあります。尚、誅殺されたと記す史料はいずれも範頼の失脚から100年以上経た14世紀以降のものであり、誅殺を直接裏付ける同時代の史料がないことから、実際に死去した日付や死因については確実なものとはいえない点と、範頼の一族には何の処分も下されていないこともあり、範頼の処遇については確実なことはいえない、というのが正直なところです。

 そして範円の子である吉見為頼に至って吉見を名字とし、子孫は御家人として存続し吉見氏と称し、その後戦国大名大内氏、毛利氏に従ったものの江戸時代に謀反の疑いで誅され江戸時代で断絶しています。

北条氏

さて、鎌倉殿の13人で御家人の多くを粛正し泰時の時代以外はまさに「殺しまくった」北条氏ですが、鎌倉幕府の滅亡時に北条一族のほとんどは討死、また直後に自害し北条氏は滅亡します。しかし最後の得宗である北条高時の次男の時行が中先代の乱を起こしましたが、捕らえられて処刑されてしまいました。しかし愛知県郷土資料刊行会が編纂した『尾陽雑記』では、時行と熱田大宮司家の女の間に生まれた時満(または行氏)の子である北条時任が愛知郡横江村に達し、さらにその孫で赤目城築城主・横井時永が横井氏を称した、とされています。

横井氏ー この横井氏から幕末に福井藩松平春嶽の政治顧問として活躍した横井小楠もこの末裔だと称していて、その末裔は現在も続いています。

鎌倉殿の13人で滅ぼされた氏族

さて、鎌倉殿の13人で滅ぼされた氏族ですが、果たして生き残りはいたのでしょうか?

梶原景時ー全員が梶原景時の変で滅んだわけではなく、梶原景時の兄で、鶴岡八幡宮(鎌倉若宮)の臨時別当に就任した梶原景実(専光房良暹)が梶原一族の没落、和田氏、畠山氏の没落の後に鎌倉を離れ石浜(宮城県気仙沼市唐桑町)に土着。以来33代、直系子孫が現在まで連綿と続いているそうです。

比企能員ー比企氏族滅後、唯一生き残った人物として比企能本がいますが、出家して僧になっていますが血縁はそこで途絶えてます。

畠山重忠北条時政との対立により畠山重忠が敗死すると重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人(鎌倉殿の13人にも出てきました義時の妹になります)と婚姻して畠山氏は桓武平氏から清和源氏に変わりました。以後足利一門からも重用され室町時代では三管領家の1つになります。その後戦国時代に一旦滅亡しますが、江戸時代に高家として復活。明治まで続きます。

和田義盛ー和田合戦で一族は滅びましたが義盛の末子の杉浦義国は命からがらに近江国まで逃れて、杉浦氏の祖となったという記録が残ってます。また義盛の孫の朝盛も生き延びて、同族の佐久間家村の養子となり、佐久間氏の名跡を継いだそうです。佐久間氏はのち織田氏に仕え、一時信盛の時代に織田信長より追放されますが、のち江戸時代に幕臣になり、幕末には松代藩から佐久間象山という偉人も登場します。子孫は現在も存続しています。

 

まあ滅亡としても一部の氏族はともかくたいていは生き残りがいて、最終的に子孫を現代まで残している氏族が多いことがおわかりでしたでしょうか?平家の子孫が現代まで残っているというのは意外でしたね、

参考までに現代まで子孫が現存している「滅亡したはず」の氏族には印をつけています。

「死ぬどんどん」などと揶揄された鎌倉殿の13人、この記事を読んで少しは明るい気分になりましたでしょうか?(笑)

 

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