KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

上総広常殺害でダークサイドに堕ちた頼朝、これから兄弟親戚を始め殺戮の限りをつくし義時もそれにつられて....

先週の鎌倉殿の13人、佐藤浩市演じる上総介広常が謀殺されて「頼朝ひでえ!!」とか「大泉が悪いww」といったつぶやきがTwitter でトレンドになりました。

特に「謀反の疑い」といいながら後ほど、鎧から願文が見つかりましたが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免したということになって「今更悔やんでも遅いだろ!」といったツイートが続いたそうです。

いやいやしかし皆さん、こんなのは序の口です。

まだまだもっとひどい話がこれからわんさか出てきますので

 源頼朝、実像に一番近い像といわれます
源頼朝は確かに初めて武士の政権として「幕府」というものを作った人物であり、政治家として優れていたのは事実ですが、一方で非常に冷酷で残忍な性格をもった人物でした。多くの同族や兄弟を死に追いやり、敵に対しても残虐な殺し方をした面があります。ここで鎌倉殿の13人に出てくると思われる登場人物で頼朝によって悲惨な最期を遂げた人物を揚げましょう。半分ネタバレに近い状態になりますが、既に史実としてよく知られていますのでそこはご了解いただきたくお願いします。

平宗盛

ご存じ平家の最後の棟梁。他の平家が壇ノ浦で身投げしたにも関わらず宗盛は死にきれず捕らえられます。宗盛は敗軍の将として頼朝の前に引き出され宗盛は卑屈な態度に終始して助命を乞い、集まった者から非難・嘲笑されたそうです。宗盛は京都に送還され近江国篠原宿で斬首されました。嫡男・清宗、次男・能宗(幼名・副将)、その他男児二人(名前は不明)も順次処刑されました。

変な言い方ですがこれは源平合戦の時代だからある程度致し方ないとは思います。

藤原泰衡

話が前後しますが、義経が奥州に逃げ匿われたときに頼朝は朝廷に宣旨を出させて泰衡と基成に義経追討を要請。しかし頼朝は最初から奥州藤原氏を滅ぼすつもりでした。元々源氏と奥州藤原氏前九年の役後三年の役以来の因縁もあり、鎌倉に本拠を置く源氏としては背後を衝かれる危険がありました。そのため泰衡が義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示しても「差し出せとは言ったが。殺せとは言わなかった」として頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かいます。(頼朝は土佐坊ら六十余騎で義経を殺そうとしたが失敗している)

頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れずその首を取るよう捜索を命じ泰衡は夷狄島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れるも9月3日に次郎に裏切られ殺害されます。

次郎は泰衡の首を頼朝に届けましたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬首。泰衡の首は前九年の役故実にならい眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられました。(残忍!! (゚o゚;;

・兄弟を謀殺

源範頼

さて頼朝の兄弟謀殺といえば真っ先に義経を思い出しますが、それは次項に譲りこの範頼もなかなか可哀そうな殺され方をしています。

時は平家も滅亡し鎌倉幕府が成立してからの話。

建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちが起こり頼朝が討たれたとの誤報が入ると嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたとの話(言わなくてもいいことを言ってしまった例)。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされ、さらには、範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送ったものの、頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽してしまいます。10日夜、範頼の家人である当麻太郎が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、結城朝光らに当麻を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと当麻は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(範頼)の為に、形勢を伺うべく参りました。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと範頼は覚悟の旨を述べ、疑いを確信した頼朝は17日に範頼を伊豆国に流しその後謀殺

この時の頼朝はまさしく疑心暗鬼の塊となっており、少しでも疑いが出てくると殺すようになってきます。この様子が頼朝に最も近侍した義時に移っていきます。

源義経

さて頼朝と義経と対立し、最後は藤原氏の本拠で悲惨な最期を遂げることは皆さんご存じでしょうが、いわゆる判官びいきで高い人気を持つ義経を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くないのですが、今回の鎌倉殿の13人の義経、今までのような美化されたキャラクターではなく、寧ろサイコパス的な性格をもつ人物として描かれていて、今までとは一味違います。確かに義経は天才的な軍略を持っていたといわれますが、同時に傍弱無人で集団行動にはあまり向いていないところは確かにあり、ある意味判官びいきの人たちから悪者にされている梶原景時が寧ろ「まとも」に見えるかもしれません。私見では今回の三谷バージョンの義経の方が史実の義経に近いといえるかもしれないと感じますが、皆さんはいかがでしょうか?

頼朝は弟2人を殺していますが、ただ平安時代は父親が妻の家に通う形が多く、特に頼朝の父の義朝は京都から関東まであちこちに側室を作った点で現代の私たちの「兄弟」とは感覚が違うかもしれません。つまり同母兄弟でないと同じ屋根の下で過ごさないわけで、範頼も義経も頼朝にとって異母弟で、鎌倉で決起するまでお互い会わなかったことを考えますと、「兄弟」といわれてもあまり実感がなかったかもしれません。

・親戚を謀殺

木曽義仲

木曽義仲は頼朝にとって従弟にあたります。

平家追討で連携を取るはずが、先に平家を都から追い出したものの、源範頼義経は数万騎を率いて京に向かい、木曽義仲を粟津の戦いで討ちます。一族郎党同士の戦いは頼朝の代から始まったわけではないのですが、結局これが「そして誰もいなくなった」ということになってしまうんですね。

・源義高

木曽義仲から頼朝に実質人質で送られましたが、ドラマでも描かれましたが本当に美青年だったようです。頼朝の長女大姫の許嫁になっていたそうですが、逃亡を図って討たれてしまいます。大姫はこれが元でショックで病になり、のちの縁談も拒み通し、後鳥羽天皇への入内の話も持ち上がったものの実現する事無く20歳で早世してしまいます。

源行家

頼朝の父義朝の兄弟で唯一の生き残りであり、頼朝から叔父にあたる源行家です、源頼朝に決起を促しましたが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を志向、頼朝に所領を求めるも拒否されたため対立、以降はおなじく甥の源義仲の幕下に走り、義仲が頼朝の派遣した頼朝の弟の源範頼義経兄弟の軍勢に討たれた後、壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受け、「四国地頭」に補任されます。行家・義経一行は都を落ちすると鎌倉幕府から命を受けた北条時定の手兵によって捕らえられ、山城国赤井河原にて長男・光家、次男・行頼とともに斬首されました。

・その他

・長田忠到

頼朝の父、義朝を殺した張本人。義朝の首を平清盛に見せにいきましたが、恩賞に不満をいただき、「せめて美濃か尾張をいただきたい」と主張、逆に清盛を怒らせ処罰されそうになったため慌てて引き下がったそうです。

 そして頼朝の実父殺しという重罪を負う身でありながら、頼朝が兵を挙げるとその列に加わります。頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り懸命に働いたといいます。しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると「「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と頼朝の命によって処刑されました。

しかも処刑方法も打ち首ではなく「土磔(つちはりつけ)」と言って地面の敷いた戸板に大の字に寝かせ、足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし顔の皮を剥ぎ、肉を切り数日かけて殺したという。刑場の高札には「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守 身の終わり(美濃・尾張)をぞ今は賜わる」という歌が書かれていたそうです。(これも残酷

(゚o゚;;))

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権力を握るためには様々な犠牲を伴うのは事実ですが、まあ一族郎党を含めこれだけの殺戮を行わなければならなかったとは、武士の政権を作るための犠牲を厭わなかったため、これだけ冷酷非情にもならなければならなかったのでしょう。

 そしてその冷酷非情さを受け継いでいった人物は?

そう 皆さんご存じですね。義時です。

鎌倉殿の13人、実は大半が滅ぼされてしまいます。

鎌倉時代は成立以前も成立してからも血を血で洗う抗争が続きました。

それをどう描くか、ですね、

鎌倉殿の13人、まだ半分も来ていません

 

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