KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

「鎌倉殿の13人」源平合戦の謎ー梶原景時はなぜ源頼朝を見逃したのか

「鎌倉殿の13人」

先々週から源平合戦が始まってますが、この源平合戦には多くの謎があるのですが、今日はその中の1つ 頼朝挙兵後、頼朝軍が伊豆国目代山木兼隆を殺し、それに対し大庭景親は頼朝討伐に向い、大庭の一族の梶原景時はそれに従い、石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破り、頼朝を追い詰めた後、頼朝が潜んでいた洞窟で頼朝と遭遇したが、頼朝を見逃したという史実があります。

 『源平盛衰記によると

敗軍の頼朝は土肥実平岡崎義実安達盛長ら6騎としとどの岩屋の臥木の洞窟(現在の湯河原町)へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄った。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得たと

されます。

それにしても本来ならもし頼朝の首を取れば大変な手柄になったはずなのに、なぜこの時に梶原景時は頼朝を見逃したのか、これが源平合戦の中で大きな謎の1つになっています。

説はいろいろありますがどれも決め手にはなりません

1.大庭の一族で大庭景親の下で働いていたがかねがね平氏政権に不満を持っており岩屋の臥木の洞窟で頼朝を見て、頼朝が並々ならぬ人物であるという直観が働いた

2.ここで頼朝を生かしておいて、あとで恩を売ろうと考えた。

あと変わったところでは

3.実は洞窟の中で頼朝の顔がよく見えなかった

これはどうでしょうかね(^^:)

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    梶原景時 保延6年(1140年)?ー正治2年(1200年)1月20日

そもそも梶原景時はどういう人かといいますと、例えば判官びいき義経ファンにはきわめて評判の悪い男で、平家攻めの時の「逆櫓論争」や壇ノ浦での先陣の口論による義経との対立に基づく「梶原景時の讒言」が原因ですが『平家物語』は好調表現が激しいためそのまま信頼することはできません。でも義経との対立があったことはどうやら事実のようで、義経の行状を事ある毎に頼朝に進言し、兄弟対立を結果として煽ったのは事実のようです。

また景時自身もほかの坂東武者から人気がなかったのも事実のようでそれが結果として後で命取りになってしまうのですが、どうもこれをみると変なたとえですが梶原景時は時代が違いすぎますが戦国の「石田三成」のようなタイプだったのではないかと考えます。

梶原景時は坂東武者に珍しく教養があり和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている歌人でもあります。また頭脳明晰で物事の判断を是々非々で貫いたようです。そのため頼朝の信任も厚かったのですが、このことも周囲の坂東武者から嫌われる原因にもなりました。

そして、どうも後者の「是々非々で貫く」というところが時代がかなり先の人物にはなりますが、石田三成に似ています。

無骨な坂東武者からすれば梶原景時の教養の高さと是々非々の態度が鼻につき、嫌われた、ということは容易に想像できます。日本人は特に論理、ロジックではなく感情で動く傾向が強いのでなおさらでしょう。

まして異母弟とはいえ、兄弟同士の殺し合いを煽動するイメージがありますからね。もっとも頼朝は義経だけでなく多くの弟や同じ源氏の親戚を殺していますから、何も梶原景時のせいばかりにはできませんが..

結局のところ景時が頼朝を見逃した本当の理由はわかりませんが、いずれにせよ本来は武士ながら武士の心を忘れてしまった平家への各武者の不満が想像以上に大きかったという点も背景にありそうです。

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