KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

私なりの徳川慶喜論ー青天を衝けをみて

最後の征夷大将軍となった徳川慶喜

この人ほど歴史上の評価が分かれる人も珍しいだろう。聡明ではあったが、自らに忠誠を誓った兵を棄てた臆病な将軍という評価もするだろうし、一方では大政奉還をあえて行い、薩長の討幕の動きをいなすといった芸当も行う。

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実際傍から見れば慶喜の行動は支離滅裂といわれても仕方がない。大坂城にいた将士たちに「大坂城を死守すべし」と得意の熱弁を振るったかと思えば、その翌日、慶喜はあろうことか、大坂城から逃亡してしまう。側近や老中、会津藩主の松平容保や、桑名藩主の松平定敬らも巻き込んで、開陽丸で江戸へ退却という敵前逃亡。見捨てられた兵たちは悲惨で特に会津藩のその後の悲惨な運命はご存じの通り

これだけ見れば確かに愚将と評価されても仕方がないが、実は慶喜はそういう評価をされても戦を避けたい事情があったのである。

時代が見え過ぎていた悲運の将軍

(1) 幕府が衰退し滅亡に向かっていることが見えていた

実は徳川慶喜は一橋にいたころから江戸幕府が衰退、滅亡に向かっていることに気づいていたように思う。周囲から家定や家茂の跡目といわれても固辞し続けたのは250年以上続いた江戸幕府をつぶす張本人にはなりたくない、という思いがあったのだと思う。

まして尊皇攘夷の長である水戸斉昭の家訓ー幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならないーが骨の髄まで染みついていたであろう、ことを考えると薩長が「錦の御旗」を出した瞬間に慶喜自身が戦意を喪失し、闘いよりも恭順の意を表した、と考えれば理解できる。例えそのことによって臆病者、卑怯者という汚名を着せられることになっても..

たいてい滅亡する歴代の権力者をみると世の中の変遷や時代を見ず、平家や鎌倉北条氏のように一族両党全員が滅亡する、というパターンが非常に多い。しかし慶喜の恭順の姿勢が結果として徳川を存続させることにはなったと思う。

逆にいえば、もし慶喜尊皇攘夷の気風の強い水戸家の出身でなかったら大阪城から抜け出すこともなかったし、江戸でも小栗忠順の幕府の軍事作戦ー「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という策を登用していたかもしれない。官軍の軍師の大村益次郎は「小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」と評している

(2) 今日本は内戦をやっている場合ではないとわかっていた

まだ帝国主義全盛の時代、イギリスもフランスも薩長や幕府に近づき、日本を支配する機会をうかがっていたことを慶喜は知っていた。アヘン戦争のような露骨な侵略はしないにせよ、軍事や貿易その他で日本の政権を実質自分たちの傀儡にしてしまおう、という隙を伺っていたことは間違いない。これはかつでのインドのムガール帝国でもそうだったし、中国の清王朝も欧米列強の餌食になっていた。

そんな時に旧幕府と新政府軍の内戦を行えば結果的に日本がイギリス、もしくはフランスに支配されてしまう、という懸念は絶えず持っていたように思う。とはいえ結果として鳥羽伏見から戊申戦争、箱館戦争と1年半の内戦は続いてしまったのだが..

恭順の姿勢を貫いて徳川存続を結果として図った

敵前逃亡に関して慶喜を批判、非難する意見はあるだろうが、彼は結果的に江戸幕府を終わらせたが、徳川の家系はほぼ全て明治以降から現代にいたるまで存続させている。実際徳川の一族で幕末、明治で命を落とした者は一人もいない。

これは幕府が滅亡していながら、過去の政権の終わりと比べても寧ろ異例といえるのではないだろうか。政治から離れ静岡では趣味三昧の生活だったという。最後の将軍としては寧ろ幸せな人生といえるかもしれない

結果として最後の将軍、ベストな結果内容だった、という議論には賛否両論あるだろうー特に箱館戦争会津戦争で多くの尊い命が失われた事実もある。しかし日本という国全体としては「最悪の結果を回避した」最後の将軍という評価をしてもいいのではないか、とも思う。

 

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