KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

真田丸ー武田勝頼ー愚将ではなく悲運の武将

真田丸ー放送第一回目なのでまだ評価云々は時期尚早と思われますので書きません。しかしなかなか楽しめました。キャステイングも今回三谷幸喜の息のかかった役者で占められ、その意味では期待できそうです。

真田氏は祖父真田幸隆の時代から武田氏の家臣として重きをなしていたのですが、物語は武田氏が滅亡するところから始まります。この甲斐源氏である武田氏の事実上最後の当主(江戸時代に家康によって再興はされますが)であるために武田勝頼「武田氏を滅ぼした愚将」というイメージがあります。

しかしさまざまな資料から考えてその評価は妥当ではないと考えます。

そもそも武田勝頼武田信玄の側室ー諏訪氏の息子で当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼といわれ本来は嫡男になる家系ではありませんでした。しかし、武田氏の嫡男義信をめぐるお家騒動があり、義信が自刃したため勝頼が跡継ぎと決められました。しかし元々家臣の諏訪氏の家系だったため勝頼を「お館様」ではなく同僚の家臣であるかのように見る向きが当初からあったようです。

既に家臣分裂の種は武田勝頼が当主になった時点で芽生えていたのです。これがそもそもの悲運の原因でした。

当初は織田領の東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落としたり遠江国の徳川領に侵入し、信玄が落とせなかった堅城・高天神城を陥落させて城将・小笠原長忠を降し、東遠江をほぼ平定する等の戦果も挙げています。勝頼が決して愚将ではないことがこの戦いによってわかります。

しかしやはり衰退の流れを決定的に作ったのは有名な織田徳川連合軍に対して長篠の戦で惨敗したのが決定的でした。この時に有力武将の多くを失い戦国で恐れられた武田の騎馬軍団の殆どを失いました。

戦国時代で家臣が主人に対して忠誠を誓う理由はただ1つ。自らの一族郎党を生き残らせるため

そしてその一度の大負け戦が家臣団を動揺させました。織田、徳川連合軍のその後の攻勢に対して後手後手に回る結果となります。それが家臣の離反を誘発します。昨日の第一回の放送はまさにその状態での武田家の様子を描いています。

野球やサッカーの試合でもそうですが一度「悪い流れ」になってしまいますとそこから挽回するのは簡単ではありません。ゲームならリセットできますが、リアルな世界ではそうはいかないのです。

武田勝頼は長篠の合戦での惨敗以降、「悪い流れ」を挽回しようと必死にもがいた形跡があります。北条やかつて父親信玄の宿敵だった上杉家との同盟強化等、しかし上杉では御館の乱を始め勝頼にとって裏目になることが続きます。

マーフィーの法則というのがありますが、ついてない時にはもがけばもがくほど事態は悪い方向に行ってしまうという経験則です。(いわゆる「成功哲学」のジョセフマーフィーとは別人です)"If there is any way to do it wrong, he will"(「いくつかの方法があって、1つが悲惨な結果に終わる方法であるとき、人はそれを選ぶ」ーまさにこの時の武田勝頼はそんな状況でした。結局御館の乱によって北条や上杉との同盟も事実上決裂、織田、徳川の攻勢に耐えきれずもともと家臣筋で元々武田の正当な嫡男とみられてなかった点もあって家臣が次々と離反します。事態はとめどもなく悪い方向にどんどん行ってしまい、悪いことが次々と重なってしまう悲運が続く状態でした。

そして昨日、戦国きっての名将真田昌幸甲斐国を捨てて上野国吾妻地方に逃亡するように進言し岩櫃城への逃亡を進言しました。それを譜代の小山田を始めとする旧家臣団が反対したわけですが、もし武田勝頼が昌幸の進言を受け入れていたら武田氏は甲斐を失っても滅亡は避けられたかもしれません。しかしこの時期の勝頼はもう死ぬつもりだったように思います。結局旧家臣の小山田信茂にも離反され天目山で勝頼は自害します。

ちなみに小山田信茂は後に信長の嫡男信忠に勝頼への不忠を問われ織田軍に処刑されてしまいます。

同時代の織田信長上杉謙信が書状において勝頼を武勇に優れた武将として評価しているにも関わらずその悪い流れになった状況を必死に挽回させようとしても悲運が重なりいかんともしがたい状態となり、最後は滅亡してしまった悲運の武将だったということができます。

武田勝頼の訃報を聞いた時、当時の羽柴秀吉は大きく嘆いたといいます。良将を失った、懐柔すれば天下の役に立ったものを

あまりにも不運が重なりすぎました。

戦国大名として武田氏は滅亡しました。しかし武田信玄をこよなく尊敬した家康は本能寺の変後に甲斐、信濃を平定した後、武田氏の一族である穴山氏の養女で武田氏庶流の秋山氏の娘を家康は側室に迎え、家康の五男となる松平(武田)信吉で武田氏の再興を測りますが、21歳の若さで跡継ぎもなく死去したためまた武田氏は断絶します。

一方勝頼の兄で出家した信玄の次男海野信親(竜宝)の息子が江戸幕府によって保護され、武田高家(儀式等を取り扱う大名ー名家に限られる)として辛うじて明治時代まだ存続しています。

最近はさまざまなところで武田勝頼の再評価が行われているようです

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