KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

真田信繁(幸村)について

いよいよ明日から三谷幸喜の脚本のよる大河ドラマ真田丸の放送が始まります。
三谷幸喜のことですから脚本を一ひねりも二ひねりもするのではないかと思われますので、まあ一応見てみようと思っております。
その真田丸の主人公の真田幸村については書いておこうと思います。ネタばれというよりは歴史の予備知識として知っておいた方がいいと思います。

実は「真田幸村」というのは江戸時代の講談等に出てきた名前ですくなくとも本人は自分を「真田幸村」と称してはいません。「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣以後で、寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』(万年頼方・二階堂行憲の著)がその初出と判明していますのでそこから、史実に忠実ということであれば真田 信繁 (さなだ のぶしげ)が正しいです。今年の大河ドラマでも「幸村」ではなく信繁を使っていますので以後は真田 信繁とここでは記します。

実は真田信繁は当時はそれほど知名度はなく、知略家で知られた父親真田昌幸の方が有名で家康はこの昌幸をことのほか恐れたといいます。昌幸は大阪冬の陣の3年前に死去しますが、家康は昌幸が本当に死んだのか何回も家臣に確かめさせています。

信繁が武士として名をとどろかせたのが今回の大河ドラマのタイトルである真田丸の戦いで、前田利常、井伊直孝松平忠直らの軍勢を挑発でく引き込み、散々に打ち破りました。この真田丸豊臣秀吉が生前、築城の際に悩み込んだ大坂城の唯一の弱点であったとされる三の丸南側、玉造口外に作られた出城のことをいいます。この真田丸大阪冬の陣の講和の際に取り壊されました。

また翌年の大阪夏の陣では圧倒的な兵力を持つ幕府軍がことのほか苦戦し、越前松平家松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、後方の家康本陣に突入。親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙、家康本陣を破砕し家康自身も二度自害の覚悟をしたそうです。最後は戦力の限界でついに四天王寺近くの安居神社大阪市天王寺区)の境内で松平忠直配下に討ち取られました。

また猿飛佐助や霧隠才蔵のようないわゆる「真田十勇士」も江戸時代の講談からのもので、実在した可能性は極めて低いといっていいです。大正時代に一世を風靡した立川文庫の中の一冊『猿飛佐助』が大好評を博し、その総集編のタイトルとして使われたのが始まりとされます。

ちなみに大河ドラマにも出てきますが信繁には真田信之という兄がおり、兄も真田 信繁に負けず劣らず名将といわれています。関ヶ原、大阪冬と夏の陣でも徳川方につき、真田 信繁にも投降を呼びかけました。真田 信繁が目立ってしまっているため何となく影が薄いのは否めませんが、名将真田昌幸の嫡男に恥じないほどの名将、名君だったようです。当時としては異例の93歳という長命でした。この真田家は明治まで続きました。

それにしても真田 信繁ほどの人物がなぜ負けるとわかっている戦いに自ら投じたのか、正直これも謎ですね。父親の昌幸の無念さをはらすという思いだったのかもしれませんが,,, そこの部分を今回の大河ドラマでどう描かれるのか楽しみです。

ちなみにその理由は信繁の旗印六文銭(もしくは「六連銭」)は、冥銭を表しているといわれてます。

亡くなった人を葬る時に棺に入れる六文の銭を意味し、三途の川の渡し賃のことといわれ、これを旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれています。

そこに信繁の取った行動の理由のヒントがあるのかもしれません

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