軍師官兵衛ー日本に来たアフリカ人弥助
「軍師官兵衛」 今日は絶頂期にある信長の様子を描いていましたが、何となく日本史最大の謎の1つ、本能寺の変のお膳立てが徐々にできあがっているように思います。
本能寺の変に関しては当ブログでも以前書きましたので詳しくは書きません。詳しくはこの記事をご覧ください
■「江〜姫たちの戦国〜」を見て、明智光秀と本能寺の変
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20110206
本能寺の変につきましてはさまざまな説がありますが、今回の「軍師官兵衛」は「朝廷黒幕説」を取っているように思います。しかし上の本能寺の変に関する私の記事にもありますように、もし朝廷が黒幕だとしたら本能寺の変後の朝廷の光秀に対する態度があまりに冷たすぎるように思います。明らかに他の勢力との日和見を決め込んでいたふしがあり、変の後に、朝廷側が綸旨や太刀の下賜などで、光秀を顕彰・賞賛した動きはなく、光秀も勅命によるものであるという主張をしていないことから私はこの説に疑問を持っています。(ちなみに現在は「足利義昭黒幕説」が有力)
ただいずれにせよ、多くの虐殺や残虐行為を信長が行ったのは事実であり、本能寺の変はやはり起こるべくして起きたと思います。
ところで今回イタリア人の宣教師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノがアフリカ人をおそらく日本では初めて権力者に面会させて、「弥助」が登場しました。この信長の家臣となったこのアフリカ人も実在の人物です。
一般的にあまり知られていないばかりか、一部の人には「トンデモ系」の題材と思われている傾向がありますが、これは立派な史実です。左の絵にも必ずしも弥助とは限りませんが、アフリカ系の人物が宣教師と共に来日していることを示しています。
これは宣教師のヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後インドに長く滞在していた経験があり、その時にモザンビークからこの「弥助」を連れてきたといわれており、新し物好きの信長は一目でこの「弥助」を気に入り家臣にします。この「弥助」は本能寺の変の時に信長と行動を共にしており、そこで信長と運命を共にしたとも、逃げ出したともいわれ本当のことはわかっていません。
ちなみに草野仁の番組TBS『世界ふしぎ発見』の中で、弥助のルーツを探しに16世紀に「モザンビーク」と呼ばれていたモザンビーク島に取材に行ったところ、現地のマクア人の男性には「ヤスフェ」という名前が比較的多いことが判明した。このことから、弥助はもともと「ヤスフェ」という名前でありそれが訛って「弥助」と名付けられたのではないかとする説もあります。
いずれにせよ今回の「軍師官兵衛」 かなり芸が細かいといいますか、歴オタをくすぐる題材を提供しますね。前回の「お江」やその前の「天地人」等、歴史考証がメチャクチャな戦国ものが続きましたが、今回はなかなかおいしいところをついてきますね。
「軍師官兵衛」の公式サイトでは本能寺は7月13日だそうです。となると中国大返しはその次の20日でしょうか。
この調子で歴オタをくすぐるいい感じの脚本を期待します