KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

軍師官兵衛ー「我に七難八苦を与えたまえ」の山中鹿助登場

久々軍師官兵衛の記事

今回は秀吉軍の中で官兵衛が竹中半兵衛とともに「両兵衛」と称され毛利側の城を落としていきますが、その中で官兵衛の妻 光(てる)の姉が嫁いだ上月景貞の居城の上月城を攻略、上月景貞が宇喜多直家の謀略で家臣に殺されてからは姉の力(りき)と子供共に官兵衛と善助を始めとする家臣たちが助け出す場面を描きました。

この光(てる)さんの姉は後に妙寿尼の名前で出家し官兵衛はこの後も領地替えの際にも呼び寄せて保護します。ドラマでは2人の娘を黒田家で保護したことになっていますが、実際には娘一人息子一人で姉は小早川秀秋の家老・平岡石見守に嫁ぎ、弟は元服して名を上月次郎兵衛正好と名乗ることになります。(のちに黒田正好と名乗り、文禄の役にて朝鮮にて戦死)

さて、官兵衛を始めとする黒田軍が宇喜多、上月連合軍に苦戦しているときに背後から援軍となって表れた軍勢の中に戦国時代のもう1人の「スター」である山中鹿助(やまなかしかのすけ)が登場しました。講談や戦国時代の小説でも扱われることの多い人物であると同時に、江戸時代においては「忠義の武将の鑑」として称賛、美化された人物でもあります。


山中鹿助(幸盛)1545-1578

いわゆる「尼子十勇士」の筆頭とされる武勇にすぐれた人物であり、毛利に滅ぼされた尼子氏の再興を3回も試みた人物で、官兵衛と会って上月城を秀吉よりもらったのが三度目の尼子氏再興の試みでした。

大河ドラマ毛利元就を見た人ならわかるでしょうが、尼子氏は出雲を本拠とする守護代として発展し、中国地方での毛利氏の最大のライバルでした。そのため毛利氏にとっても尼子氏の再興は絶対に阻止したいはずで、折しも小早川隆景吉川元春が「しつこい奴」といったのはこの尼子氏再興が三度目にあたったためと思われます。

この山中鹿助はいろんな逸話の持ち主ですが、一番有名なのは尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話でしょう。昨日の官兵衛でもそれをやっていましたが..

ちなみに演じた別所哲也、普段のイメージとは全く違う豪傑的な鹿助を演じていました。なかなかよかったと思います。


この「戦国のスター」といっていい山中鹿助はたぶん播磨で最強の大名ー三木城の別所長治が信長に叛旗を翻す事件が発生し、その兼ね合いで上月城は陥落しますので来週あたりで見納めになるので少し残念ではあります。

毛利にとって目の上のたんこぶであり続けた山中鹿助ですが、三度めの尼子氏再興の試みも空しくとらえられて殺されてしまいます。この生き様が「忠義の武将の鑑」として後年、講談その他で美化されて伝えられ、悲運の英雄としての「山中鹿助」が創られていきます。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、月に七難八苦を祈った話が教科書に採用されたりします。人間として魅力的ではありますが、こんな形で後世の人間にイメージを利用されてしまうのは鹿助にとっても不本意ではないでしょうか?

ちなみに長男とされる山中幸元鴻池新六)は父の死後、武士を廃して摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市)で酒造業を始めて財をなし、のちに大坂に移住して江戸時代以降の豪商鴻池財閥の始祖となったそうです。ちなみにこの鴻池財閥は明治以降、鴻池銀行となりこれが後の三和銀行UFJホールデイングス)の母体となります。後に東京三菱銀行と合併して現在の三菱UFJホールデイングスになったのは周知のとおり。

鹿助の遺産が日本人の身近な所に残っているというのは面白いですね

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