私の2011年3.11の備忘録
2011年3月11日 この日は絶対に忘れてはならない日である。
このことに異論がある者はいないだろう。
だが月日というのは残酷なもので、詳細な記憶が少しずつ薄れていくものである。
それを避けるためにその時の自分の状況を今記憶にある限り思い出せる限り思い出して書き残そうと思う。今後の自分の参考になれば、と思っている
↓ 以下 ↓ 3月11日 ↓ の記憶 ↓ ↓
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あの日は自分は自宅の仕事場兼スタジオで映画劇伴の作業をしていた。その作業中に始まった
最初はゆっくりとした揺れ、一瞬自分がめまいを起こしたかのような錯覚に陥った。
そのゆっくりとした揺れからすぐに激しい揺れに変わった、
作業場のMacのモニターやスピーカーが落ちないか気になり、机の下に行くどころか、モニターなどの上にあるものを必死で抑えていた。このような揺れは経験したことがなかった。その関係でスタジオの機材は無傷で済んだ。
揺れがある程度収まってから家じゅうを見て回った。女房は台所にいたが火は地震で自動的にガスが止まったので心配なかった。食器棚が倒れるのではないかと心配だったが何とか無事だった。この揺れの際ワイングラスが二個棚から落ちて割れた。結果的に東日本大震災での我が家の損害はこれにとどまった。
家の他の部分の目立った損害はなし。ライフラインも機能していたが但し電話はつながらない状態。親戚に無事の連絡をしようにも電話回線はすぐにパンク状態。メールも届いたかどうか判断できない状態だった。
facebookやtwitterなどのソーシャルネットはつないだままだったのでそこで友人の情報はわかった。特に東北にいる友人はいずれも無事を確認できたのでよかった。
地震情報を得るためにすぐにテレビをつけた。
すぐにこの国にとんでもないことが起きたことがわかった。
東京都多摩市の震度は5強、
しかしどう考えてももっとあったような気がする。
東京でもしばらく余震があった。
近所の人で外に出ていた人がいたので、まだ余震があるから外に出るのは危険だ。と伝えた。
それから間もなく津波の映像、そして福島原発の事故、翌日の水蒸気爆発
未曾有の大惨事
第二次大戦以降の最大の国難
National Emergencyの事態である。
政府の対策は終始後手後手に回った。そして官僚の単なる天下り組織でしかなかった原子力保安委員会の無能ぶり、と「都合の悪い情報を隠蔽する」体質が国民の神経を逆なでした。
そして震災の時に何よりも困ったのは「どれが正しい情報」なのか全くわからなかったこと。
facebookやtwitterではデマ情報が氾濫した。そのため「本当は」何が起きているのか、どうなっているのかなかなかわからなかった。
情報のツールがこれだけある現代でも、正しい情報を流す、という点では全く無力だった。
地震が起きて二時間後、母親がデイサービスからいつもより早く帰宅。学校も早く授業を切り上げ娘は早く帰ってきた。
その後私はすぐに買い物に出かけた。そしてしまったと思った。遅かったのだ。電池、とりわけ単一、単二の電池はすぐになくなっていた。辛うじて水や非常食を買いに行ったが、同じことを考える人間は多く既に品薄の状態だった。それから一週間近く、日本はまるで旧社会主義国が崩壊した時のようにスーパーもコンビニの棚から商品が消えた状態になった。このことがパニック買いを引き起こし、事態をよりいっそう悪化させた。
それから忘れもしない「計画停電」などというものが始まったのが数日後。これで現代人はいかに「電気」なしでは生きられないか、ということを嫌でも実感させる。特に我々自営業者を殺すには鉄砲はいらない、「電気」がなくなればもはやお手上げなのである。当然仕事の進行や納品も大きく遅れざるを得なかった。
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あれから3年、 復興もいまだ遠く、あの大震災の教訓を生かしたとは到底言い切れない。
もうこんな地震は起きてほしくないが、今回のような地震が起きた時にあの時自分はどうしたか、参考になるかもしれない。
この備忘録記事、を後々使わないで済むように願わずにはいられない