KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー「同志の誓い」新島襄との結婚とその他

八重の桜キリスト教の宣教師の新島襄との婚約をしたために八重が「女紅場」の解雇をされたり、保守的な京都の体質でキリスト教(耶蘇教と呼ばれていました)への「迫害」の様子が描かれていました。しかし槇村の「建前でいいのだ。耶蘇(キリスト教)にはならぬと宣言せよ」という要求に対し、八重の取った行動は実に八重らしい行動でした。「自分の気持ちに正直にしか生きれません」といってあっさり槇村の要求を拒否。

強制排除する役人に対し「お忘れですか? 会津の人間は恭順はしないことを?」と言い返し京都の官僚を唖然とさせます。

そんな八重をアメリカの友人に「家内は生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」手紙を書く襄。そしておそらくは日本でプロテスタントによって最初に結婚した夫婦となり、新島八重に正式になります。

一方ではヨーロッパの視察、留学から帰ってきた大山弥助(巌)と西郷吉之助の再会、これは以前も触れたかもしれない有名なシーンですが、かなり抑えめに描かれていました。この頃すでに新政府に不満を持つ士族と新政府との衝突は避けられないのでは、という憶測が各地で飛び交い、従弟で西郷をこよなく尊敬する弥助がそれを危惧して中央政府に復帰するように説得するシーンです。

実際の二人の会談はもっと逼迫した状態だったようで、中央政府への復帰を懇願する弥助の願いを西郷は頑なに拒否。それならば西郷と行動を共にさせてほしいと弥助は頼みます。しかし西郷は「それはならん」と拒否。ドラマではとても穏やかに拒否していましたが、実際にはあくまで西郷と行動を伴にしたい大山は、重ねて
「おいの命ば、兄さぁにお預けしもす」

そう言うと、西郷は急に立ち上がり、

「ならん!、断じてならん! 帰れっ! 東京に帰れっ!」と怒鳴ったそうです。

西郷という男は殆ど怒鳴ることはない人間だったそうですが、いつにない剣幕でどなった西郷を見て大山弥助はこれで西郷の悲壮な覚悟を悟ります。
この大山弥助(巌)が八重の桜でもどれだけ重要な役割を担うかは以前も書いた弥助の未来の妻に関係してきます。あとでまた出てくるでしょう。(出てこないとおかしいです)

さて、私の知り合いにも同志社大学出身者は結構いますが、その命名を八重の兄の覚馬がしていたとは私も知りませんでした。そして僅か生徒数生徒8人から学校が始まります。
「女紅場」をやめた八重も同志社にて教鞭を持ちます。来週は同志社大学の多くの有名OBを排出したいわゆる「熊本バンド」の「転校生」が入ってきます。その中にもおそらくドラマに大きな影響をもたらす人物がいますので、それは以下の「ネタバレ」に書きます。読みたくない人はパスしてください。




↓ ↓ ↓ 以下 ↓ ↓ネタ↓ ばれ ↓ ↓




さて来週描かれるであろう「過激な転校生」は通称「熊本バンド」と呼ばれるの明治のプロテスタント派の3つの源流の1つでいずれも熊本洋学校からの転校生でアメリカ人教師L.L.ジェーンズの信仰と情熱に影響された若者で当時の日本でも驚くほどの自由主義個人主義な価値観を持った若者で、「熊本バンド」の若者は後に牧師、教職、官公吏、政治家などになり日本のYMCA設立にも大きく関与します。

その中で八重の桜の今後のストーリーに大きく寄与するだろう兄弟がいます。日本の文学界、思想界に大きな影響を及ぼす兄弟です。

それは徳富蘇峰(猪一郎)、徳富蘆花(健次郎)兄弟ですが、蘇峰は後八重と激しく対立することになりますし、蘆花は覚馬と時栄の娘久栄との結婚が破断、代表作となった小説「不如帰(ほととぎす)」では大山捨松の実像とは違う「冷たい継母」として描き捨松はその嘘の噂に苦しめられる原因を作ります。ですから私的にはこの徳富兄弟はいずれも好きではありません、というか嫌いです。(特に蘇峰は国粋主義に傾倒しますので,,)

徳富蘇峰 1863-1957


徳富蘆花 1868-1927

まあこの強烈な個性集団である「熊本バンド」に襄も八重も翻弄されることになります。

ちなみに同志社の授業を開始するときに聖書を英語の教材にしていて怒鳴り込んできた槇村が覚馬に対して「捨て台詞」を吐きましたが、これから槇村との対立が激しくなり実際二年後には覚馬は顧問を解任されます。

しかし京都初の議員選挙で京都府議員に当選、これで槇村はまた覚馬にいろいろとしてやられることになりますが、たぶんこの辺りも描かれるでしょう。

八重の桜-
京都編
 いよいよこれからです。

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