KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

もう1つの会津戦争ー寺泊沖海戦

さて今回の「八重の桜」で今回はかなり多くの記事を書いていますが、それは私の母方の祖先が会津藩士だったということも大きく影響しています。

実は私の母親は新潟県三島郡寺泊町ー現在の長岡市寺泊町の出身ですが、なぜ会津藩士が会津から200キロ以上離れた日本海の寺泊に定住したのか不思議でした。

「八重の桜」では会津戦争後八重と母の佐久さん、娘のみねが兄の覚馬を頼って京都に向かいますし、多くの会津藩士が会津戦争後散り散りになったといいます。しかしなぜ日本海新潟市寺泊に? なかなか自分の中では結び付きませんでした。

JR只見線経路図
会津から新潟県の寺泊まで行くのは交通網が発達した現代でも決して簡単ではありません。一番の近道はJRなら只見線上越線の小出経由で新潟、新潟から越後線に乗り換え寺泊まで行きますが、勿論電車の本数も少なく豪雪地帯を通るため冬は運行休止になることも珍しくありません。(特に只見線と並行して走る国道252号線は冬は通行止めになります)それを考えるとよほどのモーテイベーションがないと会津から新潟の寺泊までは普通行きません。
(訂正;現在は磐越自動車道で一本で会津若松から新潟まで行けます)

それはやはり身内が何等かの理由で寺泊にいた、そして家族もその身内を頼って寺泊に移住した、と考える方が自然です。

そして実は会津藩と寺泊を結び付ける史実があることがわかりました。おそらく殆どの方が知らないと思いますが戊辰戦争の中で唯一の海戦が日本海で行われていました。

それは寺泊沖海戦という旧幕府軍と新政府軍との間の海戦です。もっとも軍艦同士の海戦ではなく幕府の輸送船の話ですが,,,

戊辰戦争の勃発後、1868年6月に奥羽越列藩同盟を結成し、「八重の桜」でも描かれていたように越後方面では越後長岡藩などが会津藩と同盟を結びました。そして新政府軍と長岡藩は「北越戦争」という戦争状態に突入します。その中で幕府から会津藩へ貸与された兵器弾薬類を運搬するため箱館経由で越後入りしていた輸送船「順動丸」山縣有朋率いる軍艦「第一丁卯丸」長州藩)および「乾行丸」薩摩藩、指揮役:沖一平)が遭遇します。

そしてその輸送船「順動丸」の乗組員は桑名藩会津藩藩士によって運航されていました。新政府軍との遭遇のあと「第一丁卯丸」「乾行丸」は、大砲による威嚇射撃を行ったうえで砲撃戦を開始。砲弾は「順動丸」の船首や外輪に命中しました。「順動丸」も大砲3発を「乾行丸」に対して応射したものの、手前に外れ、損傷し反転。海岸に自ら擱座しました。会津藩士の一柳幾馬・雑賀孫六郎ら乗員約150人は、船体を放棄して上陸。乗員や陸上の幕府軍の駐屯部隊は、会津兵20人ほどを除いて弥彦へ向かって撤退と記録されています。(稲川明雄 「寺泊海戦―越後における唯一の海戦」『戊辰戦争全史』より)
薩摩藩の「乾行丸」乗員が寺泊へ上陸して、旧幕府側に協力した住民は処罰する旨の布告を掲示しましたが、同日午後2時ころ、「順動丸」は搭載弾薬が爆発を起こして沈没したとされます。鹵獲を免れるために自爆したといわれます。

この中の会津藩に私の母方の祖先がいた可能性があります。しかし現在のように正確な「乗客名簿」があるわけではないので残念ながら私の祖先がその中にいたかを100%立証することはできません。

会津藩士の名簿のサイト
■慶応年間会津藩士人名録
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub3j.htm

この中の「藤井」というのが私の母方の祖先になりますが、5人もおりどれが私の先祖に当たるのかはわかりません。順動丸船長・近藤倉三郎の手記によれば、江戸から乗った会津藩士は、留守居役と重役各一人を含む計7名とありますが、江戸詰の藩士で藤井助三郎なる人物がいますが、それが該当する人物なのかはわかりません。

ただいずれにせよ私の母方の祖先がこの中にいた可能性は極めて高いと思います。

「順動丸」沈没後、新政府軍による掃討作戦のようなものが行われた形跡はなく、司令官の山縣有朋日本海制海権を取ることを優先し、現在の新潟市佐渡を抑えるためすぐに寺泊を離れました。その後制海権を取られた長岡藩は降伏、「第一丁卯丸」「乾行丸」は七尾港へ撤収。会津藩士や桑名藩士はそのまま取り残され、その中の多くがたぶん寺泊に定住したと思われます。おそらく私の祖先もその中にいたと考えた方が自然です。


この寺泊沖海戦の証拠は私の母方の先祖の墓がある興琳寺(写真上)にあります。先ほどの海戦の最中、「幕軍駐屯地と間違われ、砲弾が撃ち込まれ、その砲弾は、山門の真上を越え、更に本堂も越え、次に本堂裏の土手に突き刺さった。」との寺伝が残っています。

これがその砲弾です。

「順動丸」の痕跡は寺泊の旧町役場の広場でみることができます。

現在の新潟県長岡市寺泊町の様子です。いかにも田舎ののどかな町という雰囲気です。

新潟の伯母の成年後見人をやったり、今回の「八重の桜」をきっかけに母方の祖先その他についていろいろと知ることができました。明治、大正、昭和も決して楽な暮らしはしていなかったようです。

今回の一連のことを理解するのに多くのサイトを参考にさせていただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

北越戦争「順動丸の最期と興琳寺に残る砲弾」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/ni-jyundou.html
■會東照大権現
http://www.geocities.jp/aogiri40/index.html

■江戸残留藩士一覧

http://www.geocities.jp/aogiri40/ichiran.html
■寺泊沖海戦(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%B3%8A%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
■呆嶷版 「慶応年間 会津藩士人名録」
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sub3j.htm

その他多くのサイトも参考にさせていただきました。
m(_ _)m

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