八重の桜 初回感想ー人格者松平容保
さて、私個人はかなり評価しでいたんですが低視聴率といわれた平清盛に変わり、新の大河ドラマ「八重の桜」が始まりました。
いわゆるリアリズム路線と決別といっていたNHKですが、その関係でまた「天地人」や「お江」の悪夢再現か?、という懸念もなくはなかったですが、初回見た限りではきちんとしたドラマ作りになっていた印象があります。勿論まだ第一回なので評価についてはまだ早計ですが、まあ今回のような作り方が続くのであればまだ見てみようかな、という気にはなります。
「天地人」や「お江」で共通するのは脚本を担当した脚本家がはっきりいえば「自己満足」の世界に浸ってしまったことが最大の原因だと思います。脚本というのはドラマの心臓部でもありますから脚本がダメですとドラマは台無しになってしまうわけですね。まだ第一回しか見てませんが、初回を見た範囲ではそうしたオバサン脚本家の「自己満足」のようなものは感じられなかったので取りあえずは安心しました。
個人的な話ですが、実は母方の祖先は元会津藩士で戊辰戦争の敗残兵として新潟の寺泊近辺に流れ着いた、という話を聞きました。詳しい話は私もわかりませんが母方の遠い親戚の子孫がまだ会津にいるようです。まあそんなこともあって少し興味はありました。
この「八重の桜」で今日は八重に大きな影響をもたらす二人の人物がすでに丁寧に描かれていました。
一人目はおそらくドラマの準主役となるであろう、八重の兄の山本覚馬は保守的な風土の強い会津藩の中にあって佐久間象山に西洋砲術を学び、吉田松陰、勝海舟そしてたぶん出てくると思いますが横井小楠とも実際に親交があった人物です。新島八重はこの兄の影響を強く受けて育ち、のちの新島譲の同志社設立にも大きく関与する等、八重の人生のキーパーソンといってもいい人物です。正直兄の山本覚馬なくして新島八重はない、といっても決して過言ではない人物です。
おそらくこれはドラマに描かれるでしょうが、兄の山本覚馬は戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いに際しては京に残り、薩摩藩に捕われの身になりますが、その頃には覚馬は人材として長州、薩摩からも高い評価を受けており、新政府にあてた有名な建白書「管見」を口述筆記し藩主に上程、これを読んだ小松帯刀、西郷隆盛らはますます敬服、岩倉具視のはからいで釈放されたあと京都府庁に出仕、当時権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直(のち京都府令・知事)の顧問として府治を指導し、政治家行政官として辣腕をふるいます。そして八重の夫の新島譲の同志社設立にも大きく寄与します。
そして二人目は会津藩主の松平容保、会津戦争での敗軍の将であり白虎隊という悲劇もあってイメージは決してよくはないのですが、時が時なら会津藩史上に残る名君とたたえられたであろう人物です。聡明で人格者として知られ、そのため会津降伏後も藩士、領民に慕われた人物です。ただ、ドラマでも描かれていた会津藩祖の保科正之(二代将軍、徳川秀忠の落胤)の残した「家訓15か条」が容保や会津藩士の重くのしかかり、これが結果的に会津戦争の悲劇に発展してしまいます。その意味では悲劇の藩主といってもいいかもしれません。
容保は降伏後、間もなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となり政治の表舞台からは去りますが、容保の人柄と才を惜しみ政治に復帰を促しても「自分のために死んだ家臣が何千人もいるし、その家族も入れれば何万人にもなるだろう、それを考えると自分だけが富貴な身分を楽しむことなどとてもできない」といって全て断ったという話が残っています。容保の人柄がしのばれる一幕です。
まあ幕末は乱世ということもあってか、幕末四賢侯を始め名君が多かった時代でもありました。しかし時代に翻弄され、会津藩を強く縛った「家訓15か条」が松平容保の評価を不当に下げてしまったということがいえるかもしれません。
ということで来週の第二回、是非第一回のような感じでドラマを作ってほしいです。