脳死問題ー大事な点は価値観を押し付けないこと
人間の死について、という重い問題だがこの問題を「脳死は死か否か」という視点だけで論じるのは違和感がある。例えば今回の「反対派」のノンフィクション作家の中島みち氏の主張を見ると反対派の背景には日本の医療に対する不信感が背景にある。
「尊厳死」に尊厳はあるか―ある呼吸器外し事件から (岩波新書)
脳死と臓器移植法 (文春新書)
患者の視点に立ち、当該医師や院長、患者の家族など関係者へのインタビューを通じて、事件の徹底した事実確認の作業を進める。
移植臓器の提供者が少ない日本では、臓器移植を促進するための環境整備を急ぐ動きもある。だが、著者の「足によるルポ」を通じて現れてきたのは、医師が可能な限りの手を尽くしてくれたという患者や家族の納得があってこそ、臓器移植も増えるのではないかということである。
それゆえに、医療現場において客観的な基準が必要な脳死判定に対する医師のアバウトな理解と対応は、問題になる。著者は今回の事件でも、呼吸器を外された患者の中には「脳死」に至っていなかった人も含まれていたのではないかとの疑念を抱く。
また、患者が納得するためには、患者や家族に対する医師の独善的なパターナリズム(家父長意識)を排除しなければならないと指摘する。例えば、医師から「回復の見込みがない」と断言されれば、それに反論するだけの知識を持ち合わせない患者の家族にとっては、医師の言葉を受け入れざるを得なくなる。
臓器移植に尽力する人たちの努力を多とするが、こうした医療現場における改善を行った上で最後の一瞬まで尊厳ある生が守られてこそ「尊厳死」が成立する。医師に対する患者の信頼があってはじめて臓器移植への理解者もふえるのではないだろうか。
(朝日新聞のレビューより)
中島氏は脳死や臓器移植そのものに反対している、と誤解している人が多いようだが著書を読むと必ずしもそうではないことがわかる。問題は日本の医療現場の体質が「脳死」というもののコンセンサスが日本社会で受け入れなくさせているという背景もあるようだ。
しかし一方では臓器移植でしか助からない患者とその家族から見れば「わらをもすがる」思いで臓器移植を待ち望んでいる人たちも少なくないのも現実。そういう人たちの要望に応えることも重要である。また中には宗教的観点から脳死を死と認めるべきでない、と主張する人たちもいる。
大事な点は死に対する価値観を押し付けないことである。
ドナーカードで「臓器提供者か否か」という選択を自分でさせているのと同様、「脳死を死と認めるかどうか」という判断を個人の価値観で選択させるのが重要である。宗教的観点から「脳死を断固として死と認めない」人はそういう選択をさせればよいのである。そしてこの判断は医療関係者は勿論、その周辺の人たちは患者側に対していかなる圧力や誘導も行なってはならない。またその選択によって患者側が何らかの不利益をこうむるものであってはならない、と明記させればよい。
どうもこの話となると「脳死」にばかり論点がいって、「医療現場の実態」に対する議論があまり聞こえてこない、「脳死」状態になれば人間は殆ど復活できないという話だがその前に患者の医療に対する不信感を払拭し、安心して臓器提供ができる環境を医療現場で整える方が重要である。