KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

「ルールが絶対」という「正義の暴走」-日本のあらゆる病巣、諸悪の根源がここに凝縮

以前安倍政権の主要支持層の1つである20代ー30代の「ゆとり、さとり世代」について書いた。勿論特定の世代に対する偏見を助長する意図はないのだが、彼らの多く(私は勿論この世代の全員がこれにあてはまらないことを心の底から願っている)の特徴が日本という国の未来に対して深刻な悪影響を与えることを強く懸念するものだからだ。おさらいのためにいわゆる「ミレニアム世代、さとり世代」の特徴を述べると

1.強いものにひかれ、今ある現実を受動的に肯定する。変化を極端なほどに忌み嫌う

2.異論や反対することを極端に嫌う。他人と違う意見を述べることはよくないことだと考える

*(とりわけ「さとり世代」に顕著)他人からいわれないと、命令されないと何もしない、自分で自発的に企画したりものごとを作る、という発想がない

4.極端なほどの没個性。「他人と違う」ということを嫌う、自分と異質な人間を受け入れない。同調圧力に極端に弱い

*(とりわけ「さとり世代」に顕著)何か問題が起きても自分が当事者なのに他人事のようにふるまう。自分のやったことに責任を持とうとしない

ただ、「ゆとり」「さとり」世代というのは文部省が一次推進していた「知識詰め込み教育」に対するアンチテーゼとして行われ、基本的には「各自が自分で考える」機会を作る、という目的で行われたはずだった。

だが結果はご存じの通り殆ど真逆な結果になったのである。一部例外があるものの(あってほしい)この世代に共通するのは極端なまでの思考停止である。

どうしてこんなことになってしまったのか、と考えているうちにこの記事にぶちあたった。

ten-navi.com

関連場所を例によって引用させていただく

なぜか小学生はランドセルを背負いながら傘もささずに歩いていた。土砂降りの雨だ。頭の先からつま先までずぶ濡れである。何か理由でもあるのだろうかと少し気になった。

《中略》

。気になったし、理由をたずねたかったが、僕が小学生に話かけてしまうとその時点で声掛け事案になりかねないので、郵便局の屋根が庇みたいになっている場所からその様子を見守ることしかできなかった。

小学生はあいも変わらず、少し大きめの水たまりを確かめるようにして濡れながら歩いていた。

「どうしたの、ずぶ濡れじゃないの。傘使いなさい」

郵便局から出てきたおばさんが、何の躊躇もなく小学生を呼び止め、自分の傘を差しだした。よくやった。さすがおばさんだ。そう思った。

「いいえけっこうです」

小学生は少し大人びた口調でそう答えた。同時に、また雨が強さを増したような気がした。

「いいって……ずぶぬれじゃないの。返さなくていいから使いなさい。風邪ひくから」

それでもおばさんは食い下がり、ビニール傘を差し出した。

「本当にいいんです。クラスのルールなので。忘れ物は自己責任。誰も頼っちゃいけないって決まったんです」

ちょっと彼が何を言っているのかわからなかったが、少しだけ考えてわかった。彼は頑なにクラス内のルールを守っているのだ。ただそれだけなのだ。

 一度決めたルールが絶対。、忘れ物が横行する中で、自己責任であるとルールを決めた行為も正しい。あらゆることが正しいはずなのに、その正しさの連鎖の先が、ずぶ濡れの小学生になるというおかしな結末

そしてこの「ルール絶対」という今の学校の風潮がもっとおかしな方向に学校を持って行く

ある時、女教師の発案で、「今日の困ったこと」というコーナーがこの帰りの会に導入された。当時はなんだかよくわからない面倒なものが追加されたものだと思ったが、今思うとこれはある意味、「正しさ」を追求しようとするコーナーであったように思う。

毎日、誰かが手をあげて、今日の困ったことを発表することになっていた。そこで誰が悪いのかを論じ合い、謝ってもらおう、というものだった。

「今日、山岡君たちが廊下を走っていました。とても危険でした」

ある女子がそう発言する。そこで問題の山岡が照れくさそうな表情で立つことになるのだが、さらに女子から追撃が始まる。なぜ走ったのか、どこに行こうとしていたのか、ほかに走ったやつはいなかったのか、どれだけの危険があるのか理解しているのか、どうしてルールを守れなかったのか、延々とそう責められた挙句に締めの一言が放たれる。

「謝ってください」

そこで少し照れ臭そうに山岡が謝って終了、となるのである。おそらくであるが、概ねこれらの行為は正しい。ルールを守ることは大切だ

 

《中略》

 と、ここまではまだ許せる。だがこの「ルールが絶対」という「正義の暴走」は次の恐ろしい事態を誘発する

帰りの会が始まり、今日の困ったことコーナーに入ると、いつもの女子が手をあげた。

「最近、松井君の周りが臭いです。松井君はちゃんとお風呂に入ってください」

とんでもない告発が飛び出した。クラス中がざわめいた。

松井君の家は貧しかった。いつも汚らしい同じ服を着ていて、風呂にもちゃんと入っていない感じだった。いつも何かしら汚れていたし、髪だってボサボサでフケだらけだった。聞いた話によると住んでいる借家には風呂や洗濯機がなく、満足に銭湯などにも行けなかったようだ。

しかしながら、いくらそうであっても、それは人として言ってはならないことだ。いくら子どもでもそれくらいの常識は備わっているはずだ。誰もが毎日お風呂に入って綺麗に着飾ってオシャレできるわけではないのだ。

けれども、女子たちは告発した。どうやら雰囲気的に、女子たちで示しあわせて告発した向きがあった。もう告発することもなくなったし、松井いっとくか、みたいな雰囲気があった。

「臭いのよね」

「毎日同じ服だし」

「気分が悪い」

女子たちは口々にそう罵った。その勢いに乗って、男子たちも臭いだの汚いだの言い始めた。

恐ろしいことに、クラスの連中には松井君の名誉を傷つけているという意識が存在しない。あくまでも自分たちは正しく、悪を糾弾する勇者だと思っているのだ。

「謝ってください!」

何を謝れというのだろうか。不潔でごめんなさい、と謝れというのだろうか。どうやらそのつもりらしい。「正しさ」のうねりは大きな流れとなってクラス中を包み始めていた。

僕は松井君のことが好きだった。教室の中で話す松井君の話はおもしろく、興味深いものだった。彼の貧乏ネタは鉄板で、同じく貧しかった僕は深く共感した。自分の境遇を笑い飛ばせる強さが彼にはあった。

一番の恐怖は、僕自身がこの「正しさ」がおかしいと感じる立ち位置にいるのは、自分自身が聡明で物事を冷静に分析する力をもっているからというわけではない点だ。僕は松井君が好きだった。だからこの「正しさ」に腹を立てているだけで、状況が違えば、僕も同じように「正しさ」に熱狂している可能性があるのだ。それが怖い。

「もうこいつらはダメだ。でもこんなこと許されるわけがない。そう、先生だ。先生ならなんとかしてくれるに違いない。こんなことおかしいと叱り飛ばしてくれるに違いない」

縋るような視線を担任の女教師に投げつけると、彼女は「活発な議論だわ、これぞ私の目指した教室」みたいな満足気な表情を見せていた。ダメだこいつ。

「正しさ」は熱狂を通り越していた。

女子たちは口々に「早く謝れ」と言い放った。男子たちも早く帰りたいと声を揃えた。ついに松井君は泣き出してしまった。そして僕は、何もできなかった。

「多数決を取ります」

会の決まりにしたがって多数決がとられることになった。松井君が不潔にしていることを謝るかどうかを問う多数決だ。多くのクラスメイトが「正しさ」にしたがって投票する多数決だ。

結果は、圧倒的多数で「謝るべき」となった。今このクラスではそれが「正しい」らしい。

教壇に立ち、皆のほうに向き直る松井君。涙が頬を伝っていた。

「僕が不潔にしていて、みんなに迷惑かけてごめんなさい」

松井君は謝った。何に対して謝ってるのか不可思議だが、とにかく謝った。

「聞こえません!」

すぐに女子から声が飛んだ。これは聞こえているのに何度もそう指摘して言わせる嫌がらせみたいなものだ。

「不潔でごめんなさい」

「聞こえません」

「不潔でごめんなさい」

「聞こえません」

もう松井君の声は涙声で聞き取れなくなっていた。

「本当に臭かったよね」「死ぬかと思った」「風呂くらい入ればいいのに」女子たちは勝ち鬨をあげた。男子たちは早く帰りたくて半分腰が浮いていた。

「はいはい、活発な議論だったわね。松井君も不潔にしちゃ駄目よ」

担任の女教師がそう言って会を占める。

松井君は次の日から学校に来なくなった。

恐ろしいことに、松井君が来なくなるという結果に対して、関わったすべての人間が「正しい」と思っているのだ。女子たちは正しく糾弾したと思っているし、担任も良い教育ができたと考えている。僕だって、あの状況では何もできないし、逆効果だったと何もできなかった自分を正当化している。

<略ー順不同>

クソな上司、アホな取引先、頭のおかしいクライアント、それらが織りなす圧倒的理不尽をもってしても、小学生時代のこの謝罪の理不尽さには勝てない。それだけの経験だ。唯一匹敵するとすれば、社内の栗拾いツアーに、職場で嫌われまくっている僕だけ誘われなかったのに、4000円の会費を後日徴収されたことくらいだ。これはそれくらいの理不尽だった。

この帰りの会において「正しさ」は確実に暴走していた。もう収集つかないところまできていた。

私は上記に書いてある「帰りの会」のような小学校がこの国の小学校の大多数の姿ではないことを心の底から願っている。またここに引用されている酷い担任教師も日本の小学校教師の大多数ではないことを願う。

だが「ゆとり」「さとり」世代の教育の姿の多くははひょっとしたこんな状況だったのではあるまいか。普通に考えれば「ルールは絶対」の名の元クラス全員が上記の松井君の客観的に考えれば「いじめ」を殆ど正当化していて、この女教師は事実上その「いじめのお墨付き」を与えているわけである。今の日本の小学校の多くがこんな教育方針を大手をふって罷り通らせているのか?そうでないことを切に願う。ただ残念なのは一定の割合で存在したからこうなったのかもしれない。

 全員が「正しさ」を行使したその末に、結果だけ「正しくない」状況がある、今の日本という国はそんなことも理解できない社会になっているようだ

だが、「ゆとり」「さとり」世代の行動パターンを見ていると彼らの多くが「ルールが絶対」そして「暴走する正義」の環境下で育ってきたのではないか。そう思いたくもなる彼らの精神状況である。

だとすると今の日本のあらゆる病巣、あえていうが諸悪の根源、これらは全ては「学校」から始まったといえるのかもしれない。

「ルール」が絶対 それによる思考停止

最近の子供が没個性になったり、自分の意見をいわなくなったり政府がどんなメチャクチャな酷いことをしても何もいわなかったり、今のネットでのわけのわからんアホ、クレーマー等の主張する「正義」

全てがここから始まったといえるかもしれない

こんな教育で「ルールが絶対」その「ルール」の主張する「正義」の元で育った大人はこんな大人にしかなれないのかもしれない

日本の「サラリーマン」の殆どがこれに当てはまると思う。日本が停滞、閉塞している元凶といっていい

www.businessinsider.jp

最近はリンクを 紹介しても読まない人が多いので上記ページに書かれている「詰まらない人」の特徴だけ書いておこう

1. 会話のバランスが偏っている

2. 相手が会話に参加しているかどうか、わかっていない

3. 他人を笑わせることができない

4. 会話中、何も言わない

5. いつも同じことをする

6. 自分の意見がない

7. 面白い話をうまく伝えられない

8. 目新しさがない

9. 他人の視点で物事を見ることができない

10. 会話に他人を参加させない

11. アドリブに弱い

12. 基本的にネガティブ

13. 同じ話を繰り返す

14. 自分が周りの人にどう思われているかに固執する

15. 自分がいかに賢いか、証明しようとする

16. いつもつまらないと感じている

思い当たる人多くないだろうか?私は最近の日本人、こんなタイプの人ばっかりだと感じる。そしてこんな思考回路しかできない人ならリストの最後に書いてあるように「いつもつまらないと感じている」のは当然だろうと思う

そしてつまらなくしている元凶は「ルールが絶対」それによる「正義の暴走」に他ならないわけだ

もう一度いう。「ルールが絶対」という「正義の暴走」

日本のあらゆる病巣、諸悪の根源がここに凝縮されている。