KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

多くの疑問、懸念にも関わらず新元号「令和」に日本中がはしゃいだ背景ー安倍政権の思惑通りにさせないための心掛け

4月1日の当ブログの記事でも私は新元号「令和」に違和感を感じ、令が命令の令であることから安倍政権及び日本会議勢力から元号を通して国民への刷り込みを狙った可能性があることを述べた。

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これは私だけでなく多くの方が疑問をもっており、しかも問題の「令和」は元号制定の最終段階によってまさに降ってわいたように候補として入ったものであることが複数の関係者の証言によって明らかになっている、と日刊ゲンダイが報じている

 

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この報道が正しいとすると最終的には「令和」ありきで進められた感じがする。ここで気になるのは政治関係者以外の選定委員に対して安部官邸からの「同調圧力」が果たしてあったのかどうかだ。今までの安倍政権のやりかたからすれば関係者にたいする「同調圧力」があったとしても不思議ではない。

そして「安倍政権の国粋主義を象徴している」――。新元号「令和」を巡り、海外メディアがこう報じたことに、安倍官邸が逆ギレしたという報道がある。本音がばれると逆上する典型的なパターン 「命令を和をもって従え」を日本国民に刷り込むのが目的ということがばれてあわてた、というのが実態であろう。

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そもそも日本という国のあらゆることに影響するこの元号に関して海外メデイア向けに英語のプレスキットを用意しない、などということ自体がお粗末な対応といわれても仕方がない。

自分たちの魂胆がばれてしまったことに焦ったのか今官邸は「令和の令は命令の令ではない」といってそれを掻き消そうと必死だ。

■令和の令、政府「命令を意図せず」 海外の報道を否定

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とはいえ、今更遅い、安倍晋三の逆上ぶりをみれば安倍政権と日本会議勢力の魂胆は火をみるよりも明らかだ。本音はもはや世界中にバレバレである

可哀相なのはその元号のもとで天皇になる現皇太子だ。皇族には元号を選定する権限はないし、例え異論があってもそれを述べることは許されない。皇太子からすれば安倍政権と日本会議勢力のこの思惑で決まった元号など迷惑千万だろう。何せ自分が天皇でいる間はこの「令和」が使われ、退位(もしくは崩御)すれば皇太子の意思に関係なく「令和天皇」になってしまうのである。

しかしそのような多くの懸念も新元号発表のもとで大はしゃぎをしている日本国民とマスコミには全く馬耳東風かもしれない

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私自身はこの「令和」という元号。はっきりいって嫌いである。少なくとも私は5月1日以降は基本西暦しか使わないことにする。

そして残念ながら現皇太子が天皇の間はもはや「令和」を使うしか選択肢はないのだ。そのため安倍政権や日本会議勢力が目論む「国民は命令に和をもって従え」の刷り込みが失敗になるように我々国民が心掛けないといけない。それにはどうすればいいか

冷静に考えてみて多くの国民が新元号にこれだけはしゃぎ、喜ぶのは逆にいうと国民の多くが「新しい時代」「今までとは違う時代ー変化」というものに餓えていたからであろう。「平成」の時代は災害も多かったが、私が思うに今の日本社会の風通しの悪さ、息苦しい雰囲気にみんなうんざりしているからではあるまいか。

誰かが失敗するとあたかも国家の重罪人であるかのように、国民もマスコミも徹底的に叩き(某ミュージシャン、俳優のコカイン所持など「被害者」などいない失敗でも)一度の失敗は社会的な死になってしまう。ネットにはヘイトスピーチがあふれ、会社でも友人の間でもいいたいことが殆どいえない息苦しい社会。

こんな社会に一体誰がしてしまったのだろうか?

普通に考えればこんな社会では誰もしあわせになれない。もうこんな時代、こんな社会は嫌だーなどと本心ではそう思っている人もかなりいるのではないか?だから「新しい時代が来たーこれで古い時代とおさらばできる」というイメージであんなに世間がはしゃいているのではないだろうか?

ならば新元号をきっかけに国民自体が今までの社会の負の部分を一掃するために以下のことを日本国民全員でこころがけてはどうだろうか?社会の息苦しさをなくすために

1.人間の多様性を受け入れる心の広さをもつこと

勿論性的志向LGBTは勿論のこと、国籍、肌の色、宗教、その他「自分とは違う慣習の人達」を差別するのではなく、それを受け入れ尊重すること。ヘイトスピーチを行う人間は寧ろそういう行為を行うことを恥ずかしいと思う社会を作る、「自分とは違うこと」を拒否するのではなくそれを肯定して受け入れるーくらいの心の広さをもつようにしたい。それだけで今の日本社会は大きく変わると思う

2.失敗に対して寛容になる。失敗は成功の素という格言を思い出す

ご存じの通り日本がこんなにも息苦しい社会になった原因の1つに失敗に対して極端なくらい不寛容になっている点がある。芸能人が何か失敗すればこれでもかと叩き、再起不能直前まで叩きのめすことが正当化されている社会。客観的にみてその行為が本当に健全かということだ。

一体誰が失敗をこんなにまで悪いことであるかのように決めつけてしまったのだろうか?発明王エジソンは「失敗?-素晴らしいことでないか、この方法ではダメだということが分かったのだ。失敗は成功の素だ」といっている

そう失敗というのはノウハウを形成する過程で必要なことなのだ。失敗することで教訓を学び新たなノウハウを取得する。今の日本はそのプロセスそのものを否定し、失敗から教訓を学ぶのではなく、失敗を隠し「臭いものにフタ」することしか考えていない人間が多過ぎるのだ。


そこには進歩という概念が一切ない。

進歩するためには失敗にたいして寛容でなければならない。いつの時代から日本人はこんなにまで失敗を極端なまでに忌み嫌うようになったのだろうか?

3.何も考えず流されない。絶えず「これでいいのか」について考える

これが今の日本人にもっとも苦手なことかもしれない。ここまで息苦しい社会になってしまうと、自分の行動も「絶えず周囲からの監視」を意識するために「周囲の雰囲気」に流されてしまう。日本人は伝統的にこの傾向が極めて強いが、今まさにその傾向がh学校、職場、家庭あらゆることに入り込み、それがこれだけ息苦しい社会、そして「周囲に流された方が楽」という安易な方向に動いてしまう。

そこで何をやるにしても「これで本当にいいのか?」ということを自問自答する癖をつけてもいいのではないだろうか?

まずはこの3つを日本国民の大多数が心がければ、少なくとも今までの息苦しい社会の完璧ではないにせよ、かなりの部分が解消されるのではないだろうか。そして安倍政権の不埒な目論みである「政府の命令を和をもって従え」の国民の刷り込みは失敗に終わるだろう

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