KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

ピエール瀧逮捕に観る日本社会の極端なほどの失敗に対する不寛容、事なかれ主義、保身に今の日本社会閉塞の病巣を見る

今テレビ、ワイドショーをつけるとこの話題しか出てこない。肝心の政治ーとりわけ今問題になっている統計不正の政府に対する追及など重要な局面があるんだがこの電気グループのピエール瀧のコカイン所持問題の話題がこれでもかと出てくる

特に酷いのは電気グルーブのCD回収を始め、映画の公開中止、ドラマのオンエア中止等、まだ容疑者で罪も確定していないのにピエール瀧が出演、もしくは関わっていたというだけで次々と「自粛」の動きが出てきている点である。

そうした風潮に対して私は正規の音楽ブログで異を唱えてきた

勿論いうまでもないことだがピエール瀧のコカイン使用を擁護するつもりはさらさらない。

 

ピエール瀧の逮捕による映画公開やドラマ放送や配信中止の風潮に異を唱える

kyojiohno.cocolog-nifty.com

私だけではない。既に坂本龍一氏、鴻上尚史氏、松尾貴史氏ら名だたる文化人がこれに対して異を唱えている。

上記リンクの記事にも書いたがピエール瀧は悪いコトをしたから捕まった”が全てであって“それと作品は関係が無いだろう、つまりキャストの一人の不祥事があったためにその作品そのものを否定するのは間違っている、と私は声を大にしていった。

ピエール瀧は違法行為を確かにしたが出演した作品自体が違法に作られたわけではない。特に映画やドラマは俳優一人でできるもんではなく、多くのキャストやスタッフが関わって作られたものである。それらの作品をキャストの一人が不祥事を起こしたといって作品そのものを否定し、ファンが自発的に選択して鑑賞するチャンスまで奪う事は本当に正義なのか?これはどう考えてもおかしい。というのが私の主張だ。

そしてこうした風潮に対し私だけでなく多くの記事がこの自粛ムードに対して異を唱えている。

電気グルーブ自粛は本当に正義なのか?日本の音楽業界と民意の温度差を考える

block.fmピエール瀧とメーカー自粛問題

note.mu

 さてこれらの話題を見て本来なら私の音楽ブログに掲載すべき記事をなぜこちらの『社会問題』のブログに書いているのか

それはこの問題を検証していくうちに現代日本が陥っている深刻な病が原因でこのようなことが起きているような気がしてきたのだ。つまりこの事件はたまたま音楽や映像のコンテンツのアーチスト不祥事による「自粛」問題だが、本質は今の日本社会が抱える深刻な問題、病巣が背景にあることがわかったためである。

一部の人間に「犯罪を犯したんだから自粛や公開停止、配信停止は当たり前だろ?」などという向きがある。その「当たり前」という根拠はどこから来るのか? 例えば海外を見るとただ単に「法律に抵触する行為を理由に逮捕された」というだけでは音楽の回収、配信停止が行われることは欧米では無い

■【コラム】なぜ日本では「容疑者」の作品は自主回収されてしまうのか

fnmnl.tv

この文章の中に今回の問題の本質をうまくついている箇所があったので該当場所を引用させてもらう

 

アメリカと日本のケースを比較して、わかるのは自己と世間、そして法のあり方の違いだろう。

アメリカでは自己の責任において、他人の基本的人権を侵害しなければ、こうした罪を犯したとしても、今回のような判断となることは少ない。

日本においては一度でも法を犯した者は、無関係の第三者からも謗られ、その所属組織までクレームを浴びることになってしまう。法律自体がはらんでいる恣意性などは判断基準にならず、その時の法律は絶対的な正義として存在してしまう。その中で一度罪を犯した人には世間からの圧倒的な不寛容が待ち受けている。

このような社会では誰が得をしているのだろうか、実は世間にいると思っている側にとっても、何も得にならないのは明白だ。一度間違いを犯してしまったら、最後だからだ。日本のこの論理では集団としては守られているかもしれないが、個人としてはいつその中からはじき出されるかわからない。つまり集団の下に個人が従属しているような形になってしまうのだ。その中では、主体であるはずの自分は常に世間という存在するかもわからないぼんやりとした空気をビクビクと感じながら生きなければいけない。それは果たして自由な個人が存在している社会だろうか。

 まさにここに今回の問題の背景がある。

さらにこの「間違いを犯してしまう」という事に対する極端なほどの不寛容がこういう事態を生んでいる。

ピエール瀧容疑者逮捕で相次ぐ“排除”に若新雄純氏「なかったことにする“無菌社会”は危険」

headlines.yahoo.co.jp

つまり

「問題そのものを取り除くのではなく『問題な存在』をないものにしたいという風潮がある」

だから失敗の存在自体を「なかったことにする」わけだから失敗を教訓として学ぶ、などという発想自体がない。一度失敗をすれば社会からはじき出され二度と再チャレンジのチャンスなど与えられない。

そしてその失敗は当事者とは全く無関係な第三者になじられ、叩かれてしまう。

何か不祥事が起きても「なかった」ことにされるため、結果的に「問題になりそうなこと」「成功するかわからないもの」は忌避される。またそのような事態が発生した場合のメーカーや企業の責任者は自己の地位があぶなくなる、という事態が発生する

つまり今の日本の問題

1.失敗に極端なほどに不寛容である

2.企業や現場にはびこる徹底的な「事なかれ主義」

3.企業、業界関係者トップの「保身」

この3つが今回の事件の背景にあるということができる。これらは単にアーチストの不祥事の件にとどまらず今の日本社会の閉塞状況の大きな原因となっており、社会の活性化というものを阻害する。

つまり上記の3つが今の日本を蝕んでいる病巣ということができる。

これらはいってみれば今の日本人の多くがかかってしまっている心の病気である。これが治癒しない限り、今回のピエール瀧の過剰自粛やスキャンダルに対する日本企業、行政の異常行動はなくならないだろう。

残念ながらこれらに対する有効な治療方法は今のところ見当たらない。

だが日本という国は最初からこんなに失敗に不寛容な社会だっただろうか?私はそうは思わない。

となると日本社会で失敗を不寛容にした「犯人」がいるはずだ。それは誰なのか?

治療薬はそれを考えていくうちに見えてくるかもしれない