KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

西郷どん最終回にあたりーあえて大久保利通について考える

西郷どん いよいよ最終回で西南戦争が終わり、西郷隆盛は自刃します。明治維新150年に当たる今年で明治維新というのは日本人にとってなんだったのかについては次回の記事に関して考察しようと思います。

 その西南戦争西郷隆盛を結果的に自刃に追い込んだ大久保利通についてあえてここで考えたいと思います。なぜかつて西郷とあれほど強い友情で結ばれた二人が対立し戦争という悲劇にまで発展してしまったのか

 鹿児島県内では未だ大久保に対する反感も根強くありこの西郷どんでまた大久保に対する反感も盛り上がってくるかもしれません。ではなぜ西郷が人気があって大久保が人気はないのかについて考えると単に西南戦争だけの問題ではないような気がします

 

ひとことで言えば政治手法が両者の人気を分けたような気がします

そもそも大久保と西郷は薩摩藩士時代から明治維新後まで盟友として共に活動し対立することは殆どありませんでした。その流れが変わったのは私は岩倉使節団の副使として外遊した後からではないかと思います。

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大久保利通(1830-1878)

元々岩倉使節団江戸幕府が結んだ不平等条約問題を解決するための派遣だったわけですがその目的も達成できずに失意の帰国したのですが、その際外国の視察である強烈な指導者の存在を知ることになります。弱小国の集まりだったドイツを統一しイギリス、フランスに比べて遅れていた地域を近代化したオットー・フォン・ビスマルクです。大久保はこの時、ヨーロッパの後進地域だったドイツと当事の日本をある意味重ね合わせたのだと思います。

そしてその事が大久保の手法に変化をもたらしたような気がします。事実大久保と西郷の対立はこの岩倉使節団帰国の直後から始まります。朝鮮で日本国民保護(これが「征韓論」という解釈になっていますが、少なくとも西郷は朝鮮半島を武力攻撃したり征服したりなどということは一度も主張しておりません)に関して完全に対立。西郷も帰国した後の大久保が今までと違うということを感じたのだと思います。(そもそも明治に入り、いったん鹿児島に帰郷したのを呼び戻したのは他ならぬ大久保でした)

ビスマルクドイツ統一のために戦争を繰り返し文化闘争や社会主義者鎮圧法などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行いヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築。後進地域だったドイツに強大な国家を作り上げました。

 一方ではかなり強権的な手法で押し進め反対派を抑圧しました。大久保はこの手法もそのまま取り入れ、実質独裁的な権力を握ります。何よりも国家を近代化しないと悲願の条約改正は不可能であることを肌身で感じた大久保はビスマルク的手法で国家の近代化を急ぐようになります。それが西郷にはある意味、大久保の豹変のように映ったのかもしれません。(実際大久保はビスマルクに謁見して大きな影響を受けたようです)

一方もともと西郷は話し合いを元に政治を進める手法であり、大久保もそれは重々知っていたはずなのですが、ビスマルク的手法に固執する大久保と決定的な対立を呼ぶことになってしまいました。

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オットー・フォン・ビスマルク(1815-1898)

理由はやはり近代化、富国強兵と殖産興業を急ぐ大久保の胸中があったのだと思われます。岩倉使節団の時に条約改正で全く相手にされなかったことがよほど精神的に答えたんでしょう。しかし焦りはやはり禁物

西南戦争を始め地方での士族の反乱、そしてその実質的な独裁政治から結局志半ばで暗殺されることになります。ドラマにも描かれたように「まだ何も成し遂げていない」という思いは強かったでしょう。

このように独裁政治で故郷鹿児島は勿論、一般的にも決して人気が高くない大久保ですが..

昨今の政治家と違い銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたそうです。独裁的な権力を手にした大久保ですが私腹を肥やすことは一切していません。

そして勿論かつての盟友の西郷隆盛の死を聞いた時、ドラマの泣き方とは違いますが号泣し、時鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いたという記録が残っているそうです)

版籍奉還廃藩置県から廃刀令、地租改正、学令といった改革を打ち出し、結果的に憲法や議会を作ることも視野にいれていたといわれ、その作業は伊藤博文が引き継ぐことになります。しかし明治の元勲といわれながら生きて条約改正や憲法発布をみることはできませんでした。

明治維新ーそれはあまりにも大きな代償、犠牲によって成し遂げられた革命である、と考えます。明日の記事でいよいよ明治維新についての私なりの総括を書こうと思っています

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