KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

西郷どんー弱者への配慮を忘れなかった反面、敵には容赦しなかった西郷隆盛 リーダーには両面性がある

久々西郷どんの話です

今回は徳川慶喜の「大政奉還」に始まり、それに対抗すべく薩摩が岩倉具視と結託して「王政復古の大号令」を発します。よく勘違いする人がいますが江戸幕府は「大政奉還」でおわったのではなく、この「王政復古の大号令」で260年の江戸幕府が終了します。

また坂本龍馬の暗殺シーンもありました。坂本龍馬の暗殺の実行犯は現在では京都見回り組というのが定説になっていますが、黒幕として紀州藩説、薩摩藩説、土佐藩説、ややトンデモ系に近いのはイギリスのフリーメイソン説等までありますが、私はどれも否定的です。いずれにせよネットによくある陰謀論に安易に組するのは逆に危険だと思いますので、それについては述べません

今回は弟の信吾(後の西郷従道)は兄の豹変ぶりに戸惑います。戦争があれほど嫌いだった兄吉之助が幕府に対する武力討伐と様々な謀略に積極的に加担する姿を見たためです。実はここから戊辰戦争までの西郷の行動が一部の歴史家から手厳しい評価を受ける原因にもなっているのですが、西郷は味方や薩摩の領民に対しては情に厚い面を見せていますが、反面敵に対しては容赦のない残虐な面があり、敵を倒すためには手段を選ばない面は確かにありました。

 これが「薩摩御用盗(ごようとう)」といういわばテロ集団であり、結果的に戊辰戦争の戦端を開くことになってしまいました。弟の信吾はそれを行った兄に違和感を感じ反発もしたのでしょう。「兄さんは鬼になった」というのは弟の兄に対する「抵抗」でもありました。

 ですがそれは現代人の我々の感覚であり、例えば戦国時代で大名が敵を倒す時にも同様な謀略が当たり前のように繰り返されてきました。織田信長はいうに及ばず、武田信玄戦国大名では比較的温厚といわれる徳川家康ですらそうです。

 西郷吉之助は武力によって幕府を倒さなければ世の中は変わらないという信念を持っていました。そして徳川慶喜人間性をよく知っていました。大政奉還によって幕府をうつ大義名分がなくなったことで、倒幕の口実を無理やり作るために江戸にテロ行為を行ったわけです。

しかし有名な勝海舟との会談の「江戸無血開城」、そこで、ここまで強硬な態度を撮り続けた西郷は少し軟化します。それは西郷が勝海舟という人物をよく知っていたからです。実際上野での会談が決裂すれば勝海舟と親しい新門辰五郎に江戸に火を放つ準備をさせていました。また勝の配下の徳川幕府陸軍9個連隊(総人数17000人) と韮山農兵隊=御料兵は、この時代、高島秋帆に教授された重砲装備部隊(沿岸砲) -7小銃射撃では、最も長期間訓練されている西洋式軍隊-を江戸総攻撃の際配備させていました。勝海舟がどれだけ西洋の軍の運用について精通していたかを誰よりも知っていたのが西郷でした。ここで江戸総攻撃を強行すれば薩摩、新政府軍も大損害を被ることは避けられない、下手すれば敗退すらしてしまう。そう考えた西郷は勝の「江戸無血開城」とその諸条件を飲んだ、というのが実態でしょう。結果的に慶喜は自ら謹慎して恭順の意を示しましたので、薩摩、長州もそれ以上慶喜を糾弾することはできませんでした。

しかしその結果、会津を始めとする東北や越後の諸藩は結果として見捨てられることにもなりました。北越戦争と呼ばれるこの戦争で官軍は思わぬ苦戦を強いられます。結果的に戊辰戦争は1年以上続き、多くの人命が失われました。またもう少し長く戦争が続いていればフランス、やイギリスが介入してきた危険性もありましたので、いずれにせよ倒幕はいろんな意味でリスクがありました。

西郷はその大きなリスクを百も承知の上でこれを強行したわけで、その意味では胆力はかなり座っていた人物であることは間違いありません

 さて、西郷のそういった非情な面について述べましたが、戦乱の時代のリーダー多かれ少なかれそういった非情な面は持ち合わせていましたし、また持ち合わせていなければ大軍を束ねることは難しかったと思います。

しかしそれでも私は西郷は当時の他の武士とは一線を画す面があったのも事実だと思います。それは既に西郷どんでも描かれていましたように、西郷下級武士の貧乏な家で育ったこと、さらに安政の大獄の激しい弾圧から奄美大島に身を隠さざるを得なくなったこと、さらに島津久光の怒りを買い沖永良部島で生死の境をさまよったという、後にリーダーになる人物では考えられないほどのドン底を味わった人物でもあったからです。

f:id:KyojiOhno:20180917234927j:plain

西郷どんでも描かれていたように、奄美に流されていた時に薩摩による圧政ー(砂糖地獄または黒糖地獄)の現実を目の当たりにし、二番目の妻となる愛加那がいみじくも「私等は民のうちに入ってなかった」という台詞があったように薩摩には奄美大島の住民に対して明確な差別意識がありました。そして奄美での非常に過酷な取り立てを目の当たりにしたのです。そして決められた砂糖の生産量に達しなかった者に対しては、「島民カ隠蔽スルモノトナシ甚シキ苛責ヲ加フ」とあり、島民が砂糖を隠し持っているとして、拷問等を加えたとありますが、それを憂いた西郷は、「直ニ旅装ヲ整ヘ行程四里餘ヲ急行」し、当時在番役(代官)を務めていた相楽角兵衛に面会を求め、「具ニ條理ニ訴ヘ島民ノ宥恕ヲ乞フ」たとあります。 結局、相楽は西郷の言を入れて、捕らえていた農民たちを解放し、「島民皆苦責ヲ免レテ各其業ニ就キ居タリト云フ」と東郷中介著『南洲翁謫所逸話』に書いてありますがこのようなことがあったことから、西郷は島民の信頼を得ることになった、という史実があります。

しかし、西郷が砂糖地獄に陥る島民をその苦役から解放しようと考えていたわけではありません。
確かに、西郷は農民たちに対して、愛情をもって接し、彼らのことを労り、そして哀れむ精神を持っており、その溢れんばかりの憐憫の情で常に行動した人物であったと言えます。しかし逆にいいますと少し厳しい表現をするならば、そこまでが彼の限界であったとも言えます。

つまり、西郷にとって「農民とは、農作業や課役に励み、藩ひいては国のために尽くすのが本分であり、役人とは、私利私欲を一切絶ち、そんな農民たちを慈しんで、彼らが働きやすい環境を整えてあげる」ということです。
西郷はそれが「天意に報いる行為である」と規定していますが、この一節にあるとおり、西郷の理想とは、農民たちの解放ではありません。
民は国のために働き、そして役人(つまり武士階級)は民に思いやりをもって配慮してあげる、ということに過ぎません。つまり農民に「働きやすい環境を作る」といってもやはり武士である搾取階級の一員であることに変わりはないからです

しかしそれでも幕末という、いわゆる封建社会の中において、ここまで農民たちを慈しむ心を持っていた人が、消費階級であった武士、つまり為政者側に居たというのは奇跡に近いということができます。つまり支配階級であり、為政者側にいながら農民や社会的弱者に対する配慮は忘れなかった。それが西郷吉之助の評価すべき点だと思います。

勿論戊申戦争のような非情で残虐である面と、農民や弱者に配慮する心、このような真逆な面を両方もっていたことが西郷の評価を分けているということができます。

そして西南戦争で西郷は最期を迎えるわけですが、いろんな説がありますが、結局「明治維新で取り残された人=社会的弱者になった人」のために立ったように思います。どう考えても私は西郷は負けると知ってたった可能性が高いように思います。その証拠に弟の西郷従道や従弟の大山巌に鹿児島で軍に加わることを禁じています。ここのところを西郷どんークライマックスになるわけですがーでどのように描かれるか注目しています。