KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

映画「ゲッペルスと私」にみる安倍政権支持回復の構造ー自己の利益さえ確保できれば人や社会がどうなろうとかまわないという人たちの支持

全くもって昨今のこの政治状況は一体なんだ?

 公文書偽造という犯罪、隠蔽、そして呆れるほどのウソ、まやかしが飛び出しそれでも安倍政権は続き、首相は3選を視野に入れたかに見える。さらには米朝首脳会談を機に内閣の支持率に“異変”が起きた。
いうまでもなく安倍政権の支持率回復

正直私も信じられない、一部の人からは世論調査も改竄されているのではないか、などという説がまことしやかに出ている。無論RDD方式は直接コンピューターに入力されるので調査の過程ではあまり恣意的な行為を行う余地はない。唯一可能性があるとすれば出力されたデータを各報道期間が発表前に改竄すること。勿論公文書を簡単に偽造する政権だから今や何でもあり、といえなくもない。だがそんなことをすればすぐにバレる。調査は各報道機関から独立した組織でやっているからだ。

そうではなく、この支持率のしぶとい復元力にはやはり何かがある。そもそも安倍内閣は、特定秘密保護法集団的自衛権行使容認、安保法制国会審議といった大きな政策論争が起きる度に支持率が下がっても、混乱が過ぎると支持が持ち直す特異なパターンを繰り返している。

これは明らかにネトウヨが原因ではない。ネトウヨなどせいぜい全体の2%くらいしかいない、といわれる。いったん支持を離れるが、また戻ってくる人たちは別にいる。多くの世論調査分析から、その人たちは秘密保護法や集団的自衛権や安保法制そのものには反対ではない。反対論も理解した上で、意識的に大きな政策転換を支持するからこそ、反対派を説得する政権の力不足には厳しく、強引で乱暴な国会審議にも批判的で、モリ・カケ問題のだらしなさに怒る。でも、タブーを克服して理性的に判断しようとするので、手続きや少々のモラル違反には目をつぶり、また安倍内閣支持へ復帰する。


そういう層のようだ

それらについて述べた記事が毎日新聞にあった。かなり読んで納得できると同時に今日本という国の中で確実に悪夢のようなことがおきつつあることに戦慄を覚えずにはいられない

映画評を超えた現代論
安倍内閣」の支持率はなぜ回復するのか 「ゲッベルスと私」

mainichi.jp

現在岩波ホールで上映されているドキュメンタリー映画ゲッペルスと私」を見てナチスを支持した人たちと安倍政権を現在支持している層との類似性を指摘する。

非常に恐ろしいことだが、なぜ安倍政権がしぶとく支持率を回復するのかについてすごく納得できる説明が行われている。

現在公開中の映画「ゲッペルスと私」

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 この副題「なんにも知らなかった、私に罪はない」、これがある意味安倍政権の「しぶとい支持者」にも通じる言葉だ。
この映画の主人公はナチスのナンバー2、ゲッベルス宣伝相の秘書だったブルンヒルデ・ポムゼル。4年前、103歳にして戦後69年の沈黙を破り、自らの人生を語った記録をドキュメンタリー映画にしたものらしい

 

彼女は無数の似たような良識ある一市民にすぎない。たとえゲッベルスの秘書であっても。

みんな私たちは知っていたと思っている。でも、何も知らなかった。最後まで。私に罪があったとは思わない。ドイツ国民全員に罪があるとするなら別よ。結果的に国民はナチスが権力を握るのに加担した。私もその一人。あの時代は波間にいるようだった。最後は自分のことしか考えていなかった。時々良心が痛むけど、自分に感謝の気持ちも湧く。よく生き延びたわね、って

 そして後世代からの「自分があの時代にいたらユダヤ人を助けた」との批判にポムゼルは反論する

 

誠実さから言うのね。でも、同じことをしていたわ。国中がガラスのドームに閉じ込められたようだった。私たち自身が巨大な強制収容所にいたのよ」。反戦ビラをまいて斬首刑となった白バラ運動のショル兄妹を哀れみながらも、さらりと言う。 あんなことをしでかすなんて愚かだった。黙ってさえいたら今ごろきっとまだ生きていたのに。それが普通の人々の見方だった

これに関して上記の記事は次のように分析する

この映画は、転換期の政治意識がいかに形成されるかを提示している。ポムゼルは自分を非政治的人間だと主張する。だから知らなかったし、結果も免罪されるという。だが、彼女は知っていた。身近なユダヤ人たちが消えるのに気づき、異常な事態が進行していると感づいていたからこそ、知らん顔をして我が身を守り、恋人からも距離を置いた。自分個人の利害得失にだけ敏感な、社会や歴史の行方全体には目を閉ざす政治意識の持ち主なのだ。ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」を借りれば、「凡庸な政治的人間」の罪を典型的に象徴している。  

 

転換期の政治は、危機や国難を声高に唱え、「突破するための改革」と称して矢継ぎ早に大きな政策転換を繰り出す。変化を受け入れさせるため、さまざまな標語や決まり文句や掛け声を反復する。気づけば政治が過剰に社会生活を覆い、少なくない人々が政治に目覚め、それと意識せずそれまで持っていなかった政治意識に染まっていく。それは決して戦時期の特殊な現象ではない。一人の平凡で真面目な市民が、どのように自分から進んで政権に動員される政治的人間へと変貌し、そのことに無自覚なまま大きな政治の潮流を支える隊列へ加わるに至るか。麻生太郎副総理兼財務相が5年前「誰も気がつかなかった。(ナチスの)あの手口に学んだらどうか」と述べたのは、改憲手続きのレトリックにとどまらず、今の日本政治全体の手法と発想について、思わず本質を突いた箴言(しんげん)だったのかもしれない。  

 つまり異常な事態が進行していると感づいてるからこそ、知らん顔をして我が身を守る。自分個人の利害得失にだけ敏感で社会や歴史の行方全体には目を閉ざす政治意識の持ち主ー凡庸な政治的人間」ーこれが安倍政権を支える支持層だという

これはある意味学校等で「いじめ」が起きていても見て見ぬふりをする、近隣で子供が虐待されているも見て見ぬふりをする、そういう「恣意的な無関心」が社会を破滅の道に誘導していく、その構造をみることができる

先程のポムゼルの反戦ビラをまいて斬首刑となった兄妹を あんなことをしでかすなんて愚かだった。黙ってさえいたら今ごろきっとまだ生きていたのにという感覚を持っている人たちが安倍政権をしぶとく支持する人たち、ということだ

それを非難することは簡単だ、という人もいるかもしれない。確かに実際本当に憲法改正され日本がファシズム国家になれば政府批判=生命の危険に直結する社会になればそういう「恣意的な無関心」を行う人たちを簡単には非難できないかもしれない

だがまだ今ならいえる。

そして今だからこそいわなければならない

要するにしぶとく安倍政権を支持する社会の3割ー4割くらいの人たちは

自分さえよければ人や社会がどうなろうとかまわない、ということのようだ。自分の利益だけ追求し、いじめ、暴力、政治的弾圧等危険なことには見て見ぬふりという人たち。

 


もっとはっきりいえば 

自己中、利己主義者が安倍政権の主な支持層

だから 恥を知れ

ということだ。今ならまだこれをいうことができる

最後に「ゲッペルスと私」の予告編をここにご紹介しておく

家から岩波ホールまで少々遠いがやはり見なければならない、と思っている。見なければならない映画がまた山積している。なかなか仕事で行けないが..