KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

今川氏を滅亡させたにも関わらず天寿を全うした今川氏真

「直虎」で掛川城を半年にわたって攻めあぐねていた徳川家康が、今川氏真に使者を送り、和睦して家臣の助命と引き換えに掛川城を開城させました。一般的には、この掛川城の開城を以て戦国大名としての今川氏の滅亡ということになります。

 

さてかつて駿遠三を統治していた今川氏が桶狭間から10年もしないうちに滅亡してしまうわけですが、普通このような場合領主は切腹か斬首となり氏真の家族一族郎党全て殺されるのが普通ですが

何と今川氏真はこの後も生き残り、何と大阪夏の陣と同じ年慶長19年(12月28日)77歳という当時としてはかなりの長命で生きました。

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掛川城を開場した氏真はその後正室の早川殿の実家である北条氏康を頼り、氏康が死去すると家康を頼り、以後は家康、秀吉の保護下で生活しました。かつて家臣だった徳川氏とは主従が逆転する状態になったわけで、普通の武士なら耐えられないかもしれないのですがそれを曲げても氏真は生きる道を選びました。

19世紀前半に編集された『徳川実紀』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージが歴史家の中でも定着しているのも主従逆転しても平気な顔で生活していることから考えても

氏真は本質的に武士ではなく、精神的には公家であった。  といっていいと思います。

実際氏真は封建領主としては無能でしたが、和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったといわれます。 結果としてそれが子孫にも教育で受け継がれ、今川家代々の公家文化の高い能力を活かし、氏真の子孫達が江戸幕府の朝廷や公家との交渉役として抜擢されたので、江戸時代になって平和になってから高家(こうけ)という儀式を司る役目で登用されていることになります。

その意味ではドラマでも「身の丈に合わぬ鎧を来ていた」と発言していましたが、公家が戦国大名に間違ってなってしまった、というのは真実かもしれません。

戦国大名としては失格でした。しかし文化人として教養人としての自分の特徴を生かし戦国大名とは別の形で生き残ったということができます

氏真は、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねています(集外三十六歌仙連歌師武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄北条氏康・氏政も数えられています)

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 ちなみにもう一人、「滅亡」させておきながら天寿を全うした人物がいます。その男も秀吉や家康に庇護されて生き残りました。

室町幕府最後の将軍の足利義昭、この男も氏真同様「要領よく」生き残りました、

この男についてはまた別の機会に書きます