KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

舛添批判を「感情論」とか「衆愚」と決めつけ擁護する論調への違和感

既に報道でご存じの通り舛添東京都都知事が経費の公私混合の関係で辞任した。都議会の全会派が不信任案を提出という前代未聞の事態が起きようとしていたが不信任案による解職ではなく辞任だ。セコイ話だが解職なら退職金は出ないが辞任なら退職金が出る。それを考えるとどこまでもセコイ話だといわざるを得ない。

まあ辞職は当然だとしてもこれで都民の血税でまた選挙を行わなければならない。しかし私が何よりも驚いたのは舛添に対する都民やマスコミの批判に対して舛添を擁護するような論調が「識者」などといわれる連中から出たことだ。

■舛添都知事をギロチンにかけよと熱狂する民衆 (小林よしのり
http://blogos.com/outline/179381/

■セコい都知事を攻撃したのは、もっとセコい高齢者だったんじゃないか。(山本直人
http://blogos.com/outline/179545/

■舛添都知事辞任したこのタイミングこそが感情論を叩く最大の好機(L.Star)
http://blogos.com/outline/179666/

まあ小林よしのりあたりならこの手の記事を書いても不思議ではないが、これだけ舛添の今回の国民からの批判に異を唱える論調が多いことに正直この目を疑った。

共通する論点として
1.舛添前都知事の使途不明経費は少額なのに、これだけ少額の金額に目くじらをたてるのはおかしい
2.都知事の失敗を鬼の首を取ったように「正義の味方面」して叩く風潮に違和感

酷いものだと
3.政治家なんだから、賄賂もありだし、多少お金をたくさん使ってもいい政治や結果出してくれればいいんじゃない?これ以上、叩くの辞めようよ。

なんて論調すらあった。

甘利前経済相の賄賂疑惑(どう考えても立件されないことは納得できないのだが)にしてもそうだが最近非常に気になるのは政治家の不祥事に対して驚くほど寛容な風潮が日本社会に蔓延している点だ、

そもそも上記の1.の論点を読んで大きく違和感を感じるのは「芸能人のスキャンダル」と今回の「舛添の公金公私混合事件」をほぼ同列に考えているように見える点だ。

だとすれば全くの見当違いの論点である。

なぜなら舛添東京都都知事は「公人」であり。舛添のホテル豪遊や何の目的に使ったか不明の金額はいずれも「都民の血税であるという点

1.2.を論じている人にはこの観点が完全に欠落しているように見える。

あえていうのなら舛添都知事がやっていることは「公金横領」の可能性があるのだ。だから都民を始め国民が怒るのは当たり前だ。

その辺のバカな暇人が芸能人に難くせをつけて叩くのとは全く次元が違うのである。ここを大きく勘違いしている「識者」という人たちが多いのは驚くべきことだ。

上記3.に至っては全くの論外だ。こんな理屈がまかり通るのなら政治家は何をやっても許されることになる。そもそもこれを主張する人たちは舛添が具体的にどんな都知事として今回の事態を帳消しにするような「成果」を収めたというのか? 

ただ、一部の論調で「甘利前経済相」に対してはヒステリックになっていないのに、舛添に対してはヒステリックになっている。

という論には私も賛同する。
実際甘利前経済相に対するマスコミの追及は手ぬるい、というか殆ど矛を収めているといっても言い過ぎではない。

この違いは何か? 推測の域を出ないものの私は可能性として高いと思っているのは

甘利前経済相には「官邸の圧力」があったが舛添都知事にはそれがなかった。

それが甘利と比べて舛添に対してマスコミが容赦ない、その違いに対して唯一考えられる説明である。

いずれにせよ芸能人のスキャンダル等、下世話なことにはヒステリックになっても政治家の不祥事に対しては寛容になっている風潮

それが一般言論人から当たり前のように出ていることに私は危機感を覚えずにはいられない