KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

豊臣家を滅亡させたのは 実は茶々である

真田丸 昨日は茶々が豊臣秀吉の側室になる模様が描かれていました。
その時のナレーションにも「これが豊臣政権崩壊の第一歩となったのは間違いない」ということを云っていました。これは本当に事実といわざるを得ません。

一般に豊臣家を滅亡させたのは徳川家康といわれています。
形の上ではそのとおりです。

しかし家康は少なくとも大阪の陣が勃発する前までは豊臣家を滅ぼそうとは本気では考えていなかったふしがあります。

実は本当に、実質的に豊臣家を滅ぼしたのは、何を隠そう茶々ー後の淀殿その人といっても過言ではないのです。

そもそも家康が豊臣家を本当に最初から滅ぼすつもりなら関ヶ原の時にできました。しかし三成一派の動きを黙認はしたものの、秀頼を陣頭に送る等協力をしなかったこともあり、「女子供はあずかり知らぬこと、よってかまいなし」という家康の下知で60万石の一大名には落とされたものの、一方では豊臣家を公家として残すためにさまざまなことを画策しています。何より象徴的なのは溺愛までしていた孫娘の千姫を生前の秀吉の約束通り、秀頼の正室に添えたことです。本気で滅ぼすつもりならいくら戦国の世とはいえ、どう考えてもそんなことはしません。豊家恩顧の大名ですら家康が本気でその約束を果たすとは思わなかったようです。


浅井長政

ご存じの方も多いでしょうが茶々の父親はかつて信長と同盟を結びながら信長と対立し滅ぼされた浅井長政、そして母親は戦国一の美人といわれる信長の妹「お市の方

お市の方

浅井攻めの総大将は実は秀吉。浅井長政自刃後、秀吉はお市の方と三姉妹を救いだしました。無類の女好きの秀吉は実はお市の方にぞっこん惚れていたのです。実際秀吉は救出後、お市の方を秀吉の妻に、と信長に望みますが、お市の方は最初から秀吉を「あの猿、信用できない」といって嫌っていたらしくその後織田信長の宿老、柴田勝家のところに嫁ぎます。ことお市の方に関しては秀吉の完全な片思い、しかし拒絶されれば思いはなおさらは募るもの

信長が本能寺で横死後、明智光秀を破ったあと柴田勝家と有名な賤ヶ岳の戦い柴田勝家を滅ぼします。この時秀吉は今度こそお市の方を救いだし自分の妻にしようと考えますが、勝家とお市の方は共に自害してしまいます。辛うじて三姉妹だけは助けられます。秀吉はこの後「ほしい女子」の殆どを手に入れますが、お市の方だけはどうしても手に入れることができませんでした。

そのことが後の秀吉の狂気の前奏曲だったかもしれません。三姉妹の中で長女の茶々がお市の方の面影を最も強く反映していたようです。その関係で秀吉は茶々に夢中になってしまうのです。

秀吉が正親町天皇から豊臣の姓を賜ったのは天正14年(1586年)、現代ではアラファイブはまだ「人生これから」という感じがありますが、当時は人生50歳といわれ、50過ぎれば「老人」と思われた時代です。云ってみれば50過ぎたジジイが若い娘の色香に溺れている、という風に当時の人には見えた、というのが事実だと思います。

ただ権力者が単に愛人(この場合側室)を寵愛する例は洋の東西どこにでもありますが、権力者の場合それが単なる色事ではすまなくなってきます。実際この茶々への寵愛が秀吉の狂気を誘発します。次回からはその模様を「真田丸」は描くようです。京都に聚楽第ができるころには既にブレーキ役の秀長は病がち、既に晩年の狂人となる下地はこの時にできていました。

そもそも茶々の懐妊は先日の記事でも書いたように、さまざまな疑義をよんでいます。実は鶴松も秀頼も秀吉の子ではない、という噂は既に当時からありました。特に秀頼が生まれた文禄2年(1593年)を逆算すると妊娠から出産まで一般的にかかる9か月前は秀吉は九州の名護屋に殆どおり、その名護屋に茶々が出向いたという記録がないことから、秀頼が秀吉の実子であるという可能性は低いという歴史家もいます。

いずれにせよ秀頼が生まれてから豊臣家の悲劇は始まります。この時は既にブレーキ役の秀長も既にこの世になく、大政所も逝去して秀吉の暴走を止める人間は誰一人いませんでした。

豊臣家最大の悲劇である秀次の切腹、ならびに側室30人と子供の虐殺も黒幕は茶々という話もあります。実際秀次の跡継が一切生まれないようにまるで物の怪に取りつかれたように秀次一族を抹殺している秀吉はもはや正常な心の持ち主ではありません。秀次一族虐殺はただでさえ少ない秀吉の血縁を秀頼以外殆ど実質根絶やしにし、さらには豊臣政権に対する反感も助長しました。そしてこの虐殺事件で誰が一番得をしたのか、を考えると陰で動いたのが誰なのか明らかです。

元々茶々が秀吉の側室になったとはいえ、秀吉や豊臣家に対していい感情を持っていたとは常識的にいって考えられません。秀吉が茶々にお市の方の面影を追って色狂いになったことをいいことに豊臣家に自分の両親に対する復讐を画策したとしても何の不思議もありません。そして茶々に夢中になった秀吉はいとも簡単に茶々にコントロールされ、結果的に秀吉が生涯かけて築いてきた豊臣政権の破壊を秀吉自らの手で行ったというのが実態ではないかと思われます。

一方で茶々は秀頼を溺愛しました。その結果秀頼はマザコンになり、何をいっても母親には逆らえない性格になりました。

既に徳川の天下になり江戸幕府も樹立した後、暗に臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否し、そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張する等、天下人が変わったことを認めようとしませんでした。家康は例によって辛抱強く、六男の忠輝を使者に使わす等懐柔に勤めました、実際家康はこの後豊臣家が存続できるためのチャンスを何度も与えています。しかしあくまで溺愛する秀頼の天下であることを主張し、ことごとく茶々は拒否。

ついには関ヶ原による浪人(この中には真田信繁も含まれます)を集め合戦はもはや避けられなくなると見るや、大阪の陣が勃発。しかし殆ど豊臣家の方針を決めたのは茶々であって、秀頼ではありませんでした。期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、茶々は講和を指示します。一部には豊臣家の実質的な総大将は茶々であるといってもいい状態だったそうですが、徳川と講和を進める時に初めて秀頼が茶々の意に反し主戦論を唱えたようです。

家康は講和を受諾しました。暗に国替えを条件につけ、大阪城の堀はことごとく埋められ裸の状態になります。これが家康が豊臣家に与えたラストチャンスです。

そしてそのラストチャンスを拒否したのも、茶々でした。

あとは真田信繁(幸村)の奮戦空しく大阪城は落城。豊臣家は正式に滅びます。

もっとも何度も書くように秀頼が秀吉の実子である可能性は私も低いと考えます。よって豊臣家は実質的には秀吉の死の時に既に終わっていたというのが本当ではないかと思います。豊家恩顧の大名が秀頼の応援に駆け付けなかった理由も何かこれと関係があるような気がします

茶々ー淀殿はどのような考えで秀吉死後臨もうとしたのか、いずれにせよ秀吉の側室になることで内部から豊臣家を弱体化させ、両親の復讐を果たそうと考えていたのであれば、その目的は達成されたということでしょう。

それにしても女性への色香に溺れることで自ら築いたもの全てを失ってしまうというのはやはり、怖い。と思いますね。自分だって一つ間違えれば同じ過ちを犯してしまうかもしれない。

そんな思いでこれから「真田丸」を見る事でしょう