KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

「真田丸」関連ー豊臣家の人々、一族とその末路

この記事は「真田丸」のネタバレを若干含みますが、史実としてよく知られている点でもありますので、それでよろしければお読みください


羽柴⇒豊臣秀吉が日本史上でも農民(足軽)から天下人、最高権力者まで上り詰めた稀有な存在であることに異を唱える人はいないだろう。現代近くに極貧で学校もろくに行けなかった身から総理大臣にまでなった田中角栄という人物がいるが、明治以前では農民から天下人という例は殆ど唯一の例といっていいだろう。

その豊臣秀吉は史上まれにみる出世をしたが、そのため家族をとても大事にした。大事にしたのだが、家族一族にはその後過酷な運命が待っていたことは周知の史実である。
真田丸」は三谷幸喜の脚本のためその悲劇性を薄めるように配慮すると思われるが、晩年の秀吉は殆ど狂人といっていい状態になるのでそれが悲劇性を余計に助長する

そこで今後の参考のために秀吉の家族、親せきについてまとめたものを記しておこうと思う

秀吉の両親

・木下 弥右衛門 − 秀吉の実父だが詳しいことは殆どわからない。尾張国中村(現在の名古屋市中村区)生まれ。織田家の足軽、あるいは雑兵(雇い兵)であったが、ある合戦において膝を切断、あるいは足の裏を負傷したために辞職し、故郷に帰農したといわれる、秀吉7歳の時に他界
・なか(大政所)− 秀吉の生母(キャスト:山田昌) 尾張国愛知郡御器所村に生まれたと伝わる。秀吉が関白、太政大臣になった関係で天皇の宣旨によって贈られる尊称である「大政所」と呼ばれる。後述する秀吉の弟秀長の没後、気落ちし天正20年(1592年)7月に死の床につく。秀吉は実母の死の報に卒倒したといわれる。

秀吉の兄弟

・日秀尼− 秀吉の姉 本名は智子(ともこ)とされる。日秀は出家後の法名三好吉房に嫁ぎ、永禄11年(1568年)に秀次(治兵衛)、永禄12年(1569年)に秀勝(小吉)、天正7年(1579年)に秀保(辰千代)を産む。
後述する秀次の切腹や一族の打ち首という秀吉一族の最大の悲劇を目の当たりにしただけでなく、夫の三好吉房連座して讃岐国に流された。その後秀次一族の菩提を弔うため仏門に入って出家。後陽成天皇が1000石の寺領を寄進されたので、後に、皇女や公家の娘が門跡となる尼門跡として、「村雲御所」と呼ばれる格式高い寺院に入る、しかし夫の吉房は慶長17年(1612年)に逝去、さらに大阪夏の陣豊臣秀頼ら一族の大半を失い、豊臣方についた山口兵内の妻となった孫娘のお菊も徳川方に処刑されるという悲劇を味わう。寛永2年(1625年)4月24日(または4月4日)に死去した。享年92。


豊臣秀長− 秀吉の弟、異父弟ともいわれる。通称小一郎。(キャスト:千葉哲也) 人格、智謀兼ね備えた秀吉の片腕。豊臣政権において内外の政務および軍事の両面で活躍を見せ、天下統一に大きく貢献し、秀吉の全幅の信頼を得る。秀吉に異を唱え制御できる唯一の人物であったが、天正18年(1590年)1月頃から病が悪化、小田原征伐には参加できず天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は大和郡山城内で病死。この秀長の死が実質的に豊臣政権の「終わりの始まり」といっても過言ではない。

秀長は温厚、真面目、寛容であり、豊臣秀吉の名補佐役であった。ナンバーツーに徹した秀長は縁の下の力持ちの存在であり良きブレーキ役でもあった。そのため秀長が死去すると秀吉の前途には暗雲がたれこめ始め、秀長の死去から1か月後には千利休切腹、さらに朝鮮出兵を始めて諸大名を疲弊させ、後継者に迎えていた秀次一族を虐殺するなど豊臣政権は秀長の死で秀吉により破壊されていく事になる。

もし秀長が長命を保っていたならば家康に豊臣家を滅ぼされる事は無かったと言われる事が多い。秀長の死は平氏政権の平清盛が重盛を失った状況と同じとされている。秀長があと10年長生きすれば関ヶ原も大阪の陣もなかったかもしれない。

・朝日姫− 秀吉の妹 (キャスト:清水ミチコ尾張国の農民に嫁いだ。織田信長に仕えた秀吉の出世とともに、この夫も武士に取り立てられ、佐治日向守を名乗ったものの、家康の正室にするため強制的に離縁。徳川家康の正室(継室)。名は旭といわれる。家康との結婚後は駿河御前とよばれるが天正18年(1590年)の正月に病気になって14日に死去

尚、家康は朝日姫以降、秀吉に「二度と正室は持たない」と約束し事実、朝日姫の死後も正室を迎えることはなかった。(実質 斉藤由貴演じる阿茶の局が正室の役割を担った)

秀吉の妻

秀吉の正室は鈴木京香演じる北の政所ー「真田丸」では寧(ねい)一般には「おね」とも呼ばれるが、側室は正確な数がわからないほど多いのでここでは茶々ー後の淀殿のみ記す、
・北の政所− 秀吉の正室 (キャスト:鈴木京香)杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。一般的には「ねね」とされるが、夫・秀吉や高台院の署名などに「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記があるため、「おね」と呼ばれることも多い。天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたる。慶長4年(1599年)9月、大坂城を退去し、古くから仕えてきた奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移住。関ヶ原合戦後は、引き続き京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社にたびたび参詣するなど秀吉の供養に専心した。秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から「高台院」の院号を賜る。大阪の陣にて秀吉とともに築いた豊臣氏滅亡を目の当たりにするが徳川家との関係は極めて良好で、徳川秀忠高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残っている。寛永元年9月6日(1624年10月17日)、高台院屋敷にて死去。享年については76、77、83などの諸説がある。


淀殿− 秀吉の側室 (キャスト:竹内結子浅井三姉妹の長女 織田信長の姪にあたる。
ご存じ戦国の絶世の美女のお市の方の三姉妹の長女。秀吉が虜になった女性だが、理由は長女の茶々がお市の方の面影を最も反映していたからだともいわれる。
 父浅井長政、そして母の再嫁先の柴田勝家を共に秀吉との闘いで失う。
天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となり、天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生むも天正19年(1591年)に死亡。文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握る。
 関ヶ原の戦い時は大坂城に入った毛利輝元が石田方(西軍)の総大将となり三奉行もそれに同調するが、石田方が切望したと思われる、秀頼の墨付きの発給や、秀頼の出陣などは許さず、石田方の動きを認めつつも豊臣家としては観望する姿勢を保った。結果的にこのことで秀頼や淀殿の西軍への関与していないことが証明されたことになった。
 しかし関ヶ原後、豊臣家は60万石の一大名に落とされ、武家政権を構築し始めた家康とは対立。暗に臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否し、そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張した。慶長19年(1614年)、関東との交渉役片桐且元淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして大坂の陣が勃発。期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示する。しかし翌慶長20年(1615年)の再戦(大坂夏の陣)で大坂城は落城、秀頼や大野治長らと共に自害

尚、あくまで噂の域を出ないし現代となってはもはや確かめようがないのだが、数十人いたという秀吉の側室の中で唯一懐妊したのが茶々である、という点が疑義を生んでいる。つまり秀頼は実は秀吉の子ではないのではないか、という説である。実際大野治長とは愛人関係になったという話もあり、秀吉の側室になったのも実は内部から豊臣家を滅ぼすため、とかいう説もあり、秀次の粛清や虐殺の黒幕は淀殿という噂もある。あくまで噂の域を出ないのだが「真田丸」ではこのあたりをどう描くのか見ものである

秀吉の子供


豊臣秀頼− 秀吉の嫡男 厳密には三男である。秀吉一族の最大の悲劇の原因となる。
誕生した時にはすでに、従兄の秀次が秀吉の養嗣子として関白を譲られ、秀吉の後継者となっていた。秀吉は、当初は秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の2ヶ月後の10月には、秀頼と秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索したが、秀吉は、文禄4年(1595年)7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させ一族郎党全員打ち首という虐殺事件に発展する。
 関ヶ原の戦いが勃発すると、西軍の総大将として擁立された五大老のひとり毛利輝元の庇護下に秀頼はおかれた。関ヶ原では秀頼の親衛隊である七手組の一部が西軍に参加したが、東西両軍とも「秀頼公のため」の戦いを大義としており、戦後に秀頼は家康を忠義者として労った。だが、家康は五大老筆頭の立場を利用し、その戦後処理において羽柴宗家の所領(いわゆる太閤蔵入地)を勝手に分配し、日本全国に分散して配置されていた約220万石のうち、諸大名に管理を任せていた分を奪われて、秀頼は摂津・河内・和泉の直轄地のみを知行する約65万石の一大名の立場に転落した。ただ、近年の研究により、西日本を中心とした大名への干渉を行ったり、蔵入地からは依然として収入があった形跡があり、公儀としての性質を保っていた事が判明しているという。v秀頼は、生前の秀吉の計らいで婚約していた徳川秀忠の娘・千姫(母は淀殿の妹であるお江)と結婚した。
 その後も、摂関家の家格に沿った順調な位階や官職の昇進を遂げ、毎年の年頭には平公家が大坂城に大挙下向して秀頼に参賀しており、また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは秀吉生前と同様の礼遇を受けていた。武家の世界においても秀頼家臣は陪臣ではなく徳川直参と同等に書類に記載されるなど秀頼はなお徳川家と一定の対等性を維持しており、この時期を日本にふたつの政権が併存した「二重公儀体制」と評価する説もある。
  慶長10年(1605年)4月、秀頼が右大臣に昇進した機会に、家康は秀頼の上洛と京都での会見を希望するが、淀殿の反対で実現しなかった。これに対し家康は、六男の松平忠輝大坂城に派遣して秀頼に面会させている。

慶長12年(1607年)1月11日、秀頼は右大臣を辞している

家康も、将来の秀頼の扱いについては迷いがあったとされているが、最終的には、慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件を口実に秀頼と決裂し、大坂冬の陣が勃発する。

秀頼は福島正則加藤嘉明など豊臣恩顧の大名に檄を飛ばしたが、大坂方に参じる者はほとんどなく、正則が大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認した程度にとどまった。一方、関ヶ原の戦いで改易された元大名である真田信繁後藤基次長宗我部盛親毛利勝永明石全登などの他、主家が西軍に与して改易されて浪人していた数万の武士が大坂城に入城した。浪人衆は非常に士気旺盛ではあったが寄せ集めなので統制が取りにくく、しかも浪人衆と大野治長淀殿らが対立し、最後まで相違は解けなかった。しかし大坂城での戦闘では浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、幕府軍は苦戦、城内に攻め入ろうにも撃退ばかりされ、特に真田丸の戦いでは幕府方が手酷い損害を受ける。そこで幕府軍は城内に心理的圧力をかけるべく、昼夜を問わず砲撃を加えた。本丸まで飛来した一発の砲弾は淀殿の居室に着弾し、侍女の身体を粉砕し淀殿を震え上がらせたという。淀殿が和議に賛成したのはこのためだとの説もあり、大阪冬の陣は終わる。

やがて、大坂方・幕府軍双方の食糧・弾薬が尽き始め、家康は和議を提案。秀頼は当初、和議に反対したといわれているが、淀殿の主張などによって和議が実現

和議は、大坂城の堀の破却を条件として結ばれた。大坂方が和議の条件を履行しなかった為、幕府は自ら工事を進めて堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊した。大坂方はこれに抗議するが、幕府は本丸を残し堀を埋め尽くした。翌慶長20年(1615年)、大坂方は浪人の総追放や国替えを拒否、堀を掘り返し始めたため、家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言し、大坂夏の陣が勃発 奮戦した木村重成後藤基次が討ち死に樫井の戦いで先陣の塙直之が浅野軍に破れる等名だたる武将が次々と倒れ、兵力が疲弊した大坂方は、家康、秀忠が大坂に布陣したところに最終決戦を挑む。天王寺・岡山の戦いである。真田信繁は豊臣軍の士気を高めるために秀頼が前線に出馬することを望んだが、実現しなかった。淀殿がわが子かわいさに頑強に首を縦に振らなかったためという。
 坂方を押し返した幕府軍大坂城内に入城した。城内の浪人たちまでが裏切って略奪をはじめるなか、やがて天守閣が炎上し、秀頼母子は山里丸に逃れるもそこも徳川軍に包囲された。大野治長千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願したというが家康の容れるところとならず、秀頼は淀殿大野治長らと共に自害した。享年23
 秀頼はさまざまな資料から決して暗愚な男ではなかったが、母親の溺愛によるややマザコンの気はあった。結果的にはそれがある意味命取りになったと思う。
 尚。上記淀殿の記述にもあったが、秀頼は実は秀吉の子ではない説や秀次一族の虐殺の黒幕が淀殿という説も可能性としてはあるものの今となっては証明のしようがない

・鶴松− 秀吉の二男である。待望の我が子の出生を大変に喜び、長寿を祈って「棄(捨)」と名付けた。
 天正19年(1591年)鶴松は数度にわたり病に罹い8月5日に、鶴松は淀城(伏見区)でわずか数え3つで死去

・石松丸(羽柴秀勝)− 羽柴秀吉が、近江長浜城主時代にもうけた子で他の秀勝と区別するため、史家は便宜上これを石松丸秀勝と呼ぶ。
 詳しい資料に乏しく実在を疑問視する声すらあるが、天正4年(1576年)に亡くなったということは確からしい

秀吉の親族


豊臣秀次− 秀吉の甥 姉の瑞竜院日秀の長男。(キャスト:新納慎也)ご存じの方も多いだろうが豊臣家最大の悲劇がこの秀次である。
 始め宮部 吉継 その後母の嫁ぎ先である三好家を継ぎ、三好 信吉(みよし よしのぶ)と名乗る。秀吉が関白となると羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜される、後述する鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に妻子、一族全員打ち首となった。その模様はまるで屠殺場のようだったと記録されている。縁故の人物を殺しつくした後には、秀次の痕跡まで消し去ろうと聚楽第近江八幡山城の破却が命じらるほどで、この時の秀吉は既に狂人のような状態だったといえるだろう。
 秀吉は、秀次に関係したものを抹消した一方で、事件の影響を最少に収めようとも努めたが、政権内部の対立が秀次事件を機としてさらに深刻化したと評している向きもあるし、事実これでただでさえ少ない豊臣家の一族が極度に少なくなったのも事実で、豊臣家の没落の原因になったのは間違いない

秀次の粛清の原因については諸説あるが、どれも決定的な理由にはなっていない。石田三成の謀略説もあるが今日では否定されている。

・豊臣 秀勝 / 羽柴 秀勝− 秀吉の甥 秀次の弟 秀吉に従軍し美濃岐阜城を与えられる。文禄の役では、岐阜兵8,000の兵を率いて、九番隊の大将として出征するも朝鮮の巨済島で病を得て陣没 享年27

・豊臣秀保羽柴 秀保− 秀吉の甥 秀次の弟 後に豊臣秀長の婿養子となる。大和国の国主で大和大納言と呼ばれた秀長を継ぎ、官位が中納言であったことから、大和中納言の通称で呼ばれた。文禄の役名護屋城の普請に参加、次いで兵1万5千を率いて参陣する。文禄4年(1595年)4月16日に急死した。享年17。子はなく秀長の大和豊臣家は断絶する

その他親戚

必ずしも秀吉との血縁があるわけではないが、歴史上重要な人物になっている「豊臣家の親戚」を記す
加藤清正− 。母が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(キャスト:新井浩文)ということで秀吉とは遠縁ではあるが一応親戚である。近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。清正は秀吉の親戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。賤ヶ岳の七本槍の一人
 秀吉没後、石田三成と対立し前田利家没後石田三成福島正則ら7将と襲撃、間一髪のがすが、家康の仲裁で引き下がる。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後武功をたて肥後52万石を与えられる。
慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋、帰国途中の船内で発病し6月24日に熊本で死去した。享年50

福島正則− 。母が豊臣秀吉の叔母であるため、秀吉とは従弟にあたる(キャスト:深水元基)幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578年)に播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられる、
 同じく石田三成と対立し、襲撃も家康に仲介される。慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転関ヶ原に向かう。西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を与えられる。
 江戸時代に領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。範囲=家臣への知行割も事実上の給米制とし、検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするなどの善政を敷いたといわれる。

大阪の陣では秀頼から加勢を求められても拒絶し、大坂の蔵屋敷にあった蔵米8万石の接収を黙認するに留まったが、戦後「内通している」と疑義され、改易される。、信濃国川中島郡中高井郡越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封され、嫡男忠勝が早世すると悲しみのあまり正則は2万5,000石を幕府に返上。寛永元年(1624年)、高井野(長野県高山村)で死去した。享年64


小早川秀秋− 。豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなしたが、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦い徳川家康の東軍に寝返り、家康の関ヶ原勝利の立役者となる。播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封される、しかし「裏切り者」の汚名を着せられヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)、秀秋は急死。跡継もいないまま小早川家は無嗣断絶により改易される。旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったなどと言われることがあるが、実際には最期まで秀秋に仕えた後に幕府に召し出され、大名となって立藩した平岡頼勝がいる他、前田家や紀伊徳川家の家臣となった者も少なくないという

以上が主だった豊臣家の人々の面々だが、こうしてみると秀吉の出世によって秀次のような身の毛もよだつ不幸、虐殺もあり、それ以外の一族も本当に幸福な人生を送ったかというと甚だ疑問である。

出世して得たものもあるが、その代償として失うものもある、ということだ

こうしてみると人間の幸福とは必ずしも出世ではないのかもしれない
何が幸福になる、ということなのだろうか

まあ、ほどほどがいい、ということなのかな? とも思うわけだ。