KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

真田丸ー家康が最も恐れた男 稀代の智将真田昌幸

よく考えれば真田丸について今年の初め以降何も書いていませんでした。
今日から大阪編です。上杉に人質に行った信繁は今度は大阪で秀吉のもとに行かされることになります。ここから真田信繁の運命は大きく変わることになります。

というのも三谷幸喜の脚本が非常にわかりやすく、しかもウイットに富んだ面白いものなのでそちらの方に見ている方が関心が行ってしまっているというのも事実です。
三谷幸喜という人は脚本でありながら実質キャステイングもしている人で、「この役にこの役者を使う」という前提で脚本を書く人らしいです。そのため俳優のキャラ、特徴を生かした脚本になるので、俳優はのびのびといつも楽しそうに演じています。それゆえ名場面や名台詞が沢山でてくるわけです。

よってこんなセリフが話題になってしまうわけです
西村雅彦演じる室賀正武、もうこれが見れないのは残念ですが..(笑)

西村雅彦は三谷とは日大芸術学部からの盟友ですから、お互い知り尽くしているのでしょう。室賀正武について何か書こうかと思いましたがこの「黙れ小童!!」があまりにも流行りすぎて、既に室賀に関する多くの記事がネットにありますので、知りたい方はそちらをご覧ください。

■室賀 正武とはどんな人
http://rekishi.sseikatsu.net/muroga-masatake/

さて、その室賀 正武は真田信繁(幸村)の父の真田昌幸の暗殺を徳川家康と結託して実行しようとしましたが未遂に終わります。これはどうも史実のようです。

当時の信濃小県郡の国衆、いわば町や村レベルの小領主の集まりの為家康としても本隊を出すまでもないと考えて謀略を考えたのでしょうが、ここで信繁の父親の昌幸ー草刈正雄が好演していますがーについて何も書いていなかったので記しておきましょう。

実は徳川家康が戦場で敗れた唯一の武将は公式には武田信玄との三方ヶ原の戦いとなっています。
徳川軍はこれ以外の戦いは負け知らずだったのですが、実はもう1人家康が生涯勝てなかったのがこの真田昌幸です。

真田昌幸(1547-1611)

前回第一次上田合戦の模様が描かれましたが、この戦いで真田氏の勇名は知れ渡ることになります。このあと関ヶ原の時にも徳川軍は上田城を攻略しますが、結局徳川軍が真田昌幸との闘いに勝つことはありませんでした。

そのため徳川家康はこの真田昌幸をことの他恐れ、次のような逸話が残っています。

1.昌幸の訃報が流れた時に家康は真田昌幸は本当に死んだのか家臣に三度も確かめさせている。



2.昌幸の死後、信之はその葬儀に関して家康の側近である本多正信に尋ねた。それに対して正信は昌幸は重罪人であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告し、結局葬儀に関してはとりおこなうことができなかった。



3.家康は大坂冬の陣で真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われ、その時家康の手は震えていたと伝えられ、家康がそれだけ昌幸に恐怖していたとされる。

家康が実質出陣していないとはいえ、二度にわたり徳川軍を破った昌幸を本当に恐れていたのでしょう。

真田昌幸を始めとした信濃の国衆は自分の領地を守るのが第一の目的で、そのためにドラマでも描かれたように自分の領地を守ってもらう大名をくるくる変えます。代々大名家に仕えている譜代の武将に比べると忠義心がないと思われるかもしれません。でも、地元を守ることが大切なので次々に従う大名家を変えるのは珍しいことではなかったのです。かくして真田家は武田滅亡後、織田、北条、徳川、上杉とくるくると「盟主」を変えます。

力や知恵の劣る者は生き残るのが難しい時代、そのため真田昌幸も知略の限りをつくして真田家の生き残らせるために必死に戦いました。

そして天下分け目の時に昌幸は究極の生き残り策を用います。

どちらが勝っても真田家が生き残るように、兄信之を徳川方に、弟信繁と自らは石田三成方に尽きます。小大名が生き残るための悲しいまでの非情な策です。

結果はご承知の通り、
昌幸と信繁は死罪を徳川方から申し渡されるところを、兄信之の助命嘆願と本田忠勝のとりなしによって九度山への流罪になります。家族、一族郎党を伴ったため、生活費は兄信之が見たようです。(信之は10万石の大名に出世)

家康が最も恐れた武将、真田昌幸

その煮ても焼いても食えない人物を草刈正雄さんは見事に演じています。

今回の「真田丸」やはり練りに練られた脚本と俳優の存在感でドラマというのはこうも印象が違うのか、と感じた次第。

これからの大阪編。楽しみです