Facebookトリコロール写真の是非云々に見るネット論調の底の浅さ
しばらくこちらのブログの更新に手が回らなかった、
やはりブロガーというのは基本ヒマ人でないとできないww
さて先週の911を思わせるパリの同時多発テロを見て、またきな臭い状況になっているが今回それにからんでFacebookで自らの写真をフランス国旗のトリコロール調に変えることの是非について様々な論調があった点について述べる。
なぜ私がトリコロールにしたか?
単純にパリでテロによって120人以上の罪のない人命が失われた。それに対する追悼と慰霊の気持ちをこめてトリコロールにしていた。パリには知り合い、友人もいるし彼らの安否も心配だったからである。(幸いにして無事が確認されたが..)
それに対してトリコロール写真を変えた人に対し
・パリだけでなくベイルートでもテロが起きたのに、パリだけを追悼するのはおかしい
・トリコロールにするのはテロは避難しても空爆は支持するのと同じだ、どちらもテロじゃないか
・このテロのあとまた戦争が起きるだろう。トリコロールにするのはその戦争を支持するのと同じだ、
・フランスに攻撃をされて命を失った人には祈らないのか?そしてイスラム組織に、お前はフランスの味方なんだな、と標的にされてもかまわないんだな?
上の1つ1つだけをみればいずれも確かに一理はある。それを誤りだなどというつもりはない
だがこの中で一番違和感を感じるのは、トリコロールにした人もそれを批判、非難する人も「我こそは正論を述べている」という形で自分の価値観、考えをお互いに押し付け合っている、という構図だ。
追悼の仕方や事件の受け止め方はそれぞれあっていい。やらない人がやる人に、やる人がやらない人にケチをつける構図を見ていると実に不毛だ。こんなことをして一体何の意味があるというのか。?
変更したい人はして、したくない人はしないで良いはずなのだが、今のネットの論調のひじょうによくない傾向として「多様をな意見を一切認めない」という風潮だ。「我こそが正論を述べている」「我こそが正義だ」などとふりかざして、トリコロールに変えた人間を叩くという構図だ、
特にネトウヨあたりがこの叩く構造に便乗すると事態は余計に醜くなる。
それゆえ「トリコロールにしている人間は皆、偽善者だ」などという極論がネットで大手をふってまかり通ってしまう。
どうするか決めるのは、自分の意思だから、それをとやかく周りにいわれる筋合いはないはずだ。
またそれは多くの場合各自が自分なりの意思表示であり、自分なりの考え方でやっている。何よりも私は自分の写真をトリコロールにしたことに他人に自分の価値観をおしつけた覚えはないし、トリコロールにしたくない人はしなければいい、と思っている。
ただそれだけのことではないか?
人は人、自分は自分。それでいいではないか? なぜ他人の多様な意見を受け入れようとしないのか?
つまりそこには「我こそは正論を述べている」という正義の味方面して、人を叩き罵って「憂さ晴らし」行為をするという実態をみることができる。それらを見ると
本当の偽善者はどちらだ?
といいたくなるわけだ。
訳の分からん「正論」「正義」を武器にして人を叩いたりブログやSNSを炎上させようというのは今に始まったことではないが、この「多様な意見を一切認めない」という風潮がいかにネットの論調、議論を底の浅いものにして、まともに議論する価値のないゴミ記事だけが溢れる状況を作ってしまっているか。
あえて名指しさせてもらうが、この件に関するBLOGOSの一連の記事は本当に酷いものばかりだった。これではサイトの信頼性、品位をBLOGOS自ら下げているといわざるを得ない。
ネトウヨ受けする記事を掲載することはサイトのトラフィックを上げることにはなるかもしれないが、ウエブサイトの信頼性、品位は間違いなく下げることになると思うし、そういうことを続けているウエブサイトの将来はそんなに長くはないと思うが、
いずれにせよたかがソーシャルネットの写真をどうするか、云々でかくも底の浅い価値観の押し付け合いしかなかったというのは残念極まりない。