軍師官兵衛ー検証石田三成の讒言とは
軍師官兵衛 今回は石田三成の讒言(ざんげん)によりとうとう千利休が切腹する場面が描かれました。
千利休の切腹の理由については諸説ありますが、軍師官兵衛では利休の諫言を秀吉が認めず、蟄居→切腹させたという説を取っています。ただいろんな説を見ましても秀吉は本気で利休を切腹させる気はなく、利休の方が折れれば許すつもりだったようですが、妥協を許さない利休の芸術家魂を秀吉は読み取れなかったということでしょう。
合わせて豊臣家の屋台骨といっていい秀吉がもっとも信頼していた弟の豊臣秀長が病死、私見では豊臣家の滅亡はこの時に始まったといってもいいでしょう。ちょうど平家で清盛の嫡男重盛が死んだのと同じくらいの意味があります。
その利休の切腹の原因を作ったとされる、石田三成、軍師官兵衛でも他の戦国ものと同様徹底的に悪役として描かれています。かなり山岡荘八バージョンに近い石田三成の描き方のようにも見えます。
以前大河ドラマ史上最低の駄作といっていい「天地人」の時に石田三成を再評価する動きがある旨の記事を書きました。
■石田三成
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20090531/1243774380
ここでもう一度石田三成に対する評価について考えてみたいと思います。
石田三成 1560-1600
以前書いた上記の記事でみえてくる石田三成像は
1.官僚として極めて有能
2.私利私欲や私情に関係なく合理的な判断をする人物で妥協もしない人物。そのために融通のきかない、傲慢でそして冷たい奴という印象を人に与えた。
3.確かに基本的に横柄な性格で、自分の能力にやや自信過剰な面もあった。そのため「上司」(秀吉)の死後はかなり横柄さ、独断先行やスタンドプレーが目立った。
また三成が主犯格といわれていた以下の件については、最近の研究により否定されています。
・蒲生騒動
文禄4年2月7日(1595年3月17日)に蒲生氏郷が40歳で死に、側近だった蒲生郷安と譜代家臣の間で起こったお家騒動。
・豊臣秀次の失脚と切腹
文禄4年7月15日(1595年8月20日)。三成の讒言で妻子含む一族すべて処刑された事件
さて、ここで以前から加藤清正や福島正則を始め今回の利休の切腹、そして来週官兵衛が窮地にたつことになる三成のもう1つのイメージ、讒言について検証したいと思います。
あらゆる歴史小説で特に三成が悪者にされている原因の1つに石田三成の豊臣家臣の秀吉に対する讒言ーつまり家臣の行為を非常に悪く言うこと、が問題視され、それが三成のネガテイブイメージの根幹をなしている、といってもいいでしょう。
この讒言には事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたり(でっちあげ)という意味も入っています。単なる「チクリ」よりも悪い。嘘をいうというニュアンスがこの言葉にはあります。
問題は石田三成ははたして本当に秀吉に秀吉家臣に関する事実とは違う嘘の報告を他の家臣について行っていたのか、という点です。
それは正直疑問です。というのは三成はそれでなくても元々敵が多い人物ですから、実際ありもしない嘘の報告をすればすぐにばれてしまうし、すぐばれるような嘘をつくほどこの石田三成という人はバカではないと思います。
また記事の内容がどこまで正確かはわかりませんが、こういう記事もあります。
■三成に対する逆恨みと、大局を見る目
http://homepage2.nifty.com/inutomononohu/katoukiyomasa9.htm
■悪人列伝−忠義の人だった「悪役」石田三成
http://sogonenpyo.seesaa.net/article/302268766.html
これらのことを見ているとある一つのことが見えてきます。
それは戦国時代では武将の功績を誇張して大将に届け出るという習慣があったようです。
これに対して三成は
オブラートを一切くるまず事実をそのまま伝えた、しかもいいことも悪いことも全て伝えた。
ところが大将というものは、「悪いこと」を聞くとそちらの方が気になるものです。
この三成の「いいことも悪いことも事実そのままに伝えた」ことが当時の習慣として「大将にわざと悪い報告ー悪口を言った」という風に見えてしまったのではないか。
というのが真実なのではないか、と思うのです。
三成はある意味人の感情を意に介さず、なんてもロジカル(論理的ー是々非々)で論じる傾向が強すぎた人物ではないかと思います、それこそ潔癖症といっていいほどの清廉潔白なところがあり、それが当時の人間には「冷たい」「横柄だ」という風に移ったのかもしれません。
さて、石田三成に対して理解を示すような書き方になっていますが、しかし私は結果として石田三成もA級戦犯クラスといっていいくらい豊臣家滅亡の原因を作った人物と言わざるを得ません。
三成は官僚として、そして実務能力は確かにずば抜けたものを持っていましたがやはり指導者としては?マークを付けざるを得ません。それは指導者として致命的なことを理解していなかったように思うからです。
それは 人間は理屈で動くのではなく感情で動くもの。 という点
最近何でも「正論」とか「正義」を盾に人を叩いたり、クレーマーになったりという人物がいますが、元来人間というのは「正論」だけで動くものではない。ロジカルよりは感情、イメージ(感覚)の方で動くものです。実際に世の中にはそんなに清廉潔白の人なんていないものです。ネットやメデイアの情報ばかりをみているとその辺りのことを忘れてしまいがちです。
石田三成もそういうところがあったのではないか、という気がします。実際人の感情や配慮をきちんとしていれば、加藤清正や黒田長政を始め七将に襲撃される、などという事態など起きないはずです。これはよほど恨みをかっていないと起きないことです。
そして少なくとも結果的には豊臣家の分裂の原因を作り弱体化の原因を作ったのが紛れもなく石田三成である、という点、これはどんな歴史研究科も否定できない事実なのではないかと思います。
石田三成を徳川光圀は「大日本史」にて忠臣と評していますが、私は結果として豊臣家弱体化の原因を作ったことを考えると石田三成はやはり忠臣とは呼べないのではないか、と考えます。