KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

軍師官兵衛ー官兵衛の秘策ー中国大返し

軍師官兵衛、先週は前半のクライマックスともいえる本能寺の変
戦国時代最大の謎といわれるこの事件、演じた江口洋介明智光秀を演じた小朝もよかったですね。そして明智の謀反気を煽っておきながら日和見を決め込むいやらしい公家たち。
徳川家康の側近たちも出てきました。東幹久が井伊直政ですが、これは関ヶ原にらんでのキャステイングでしょう。あと本田忠勝と榊原康政 −いわゆる徳川四天王といわれる4人のうちの3人です。(あとの一人は酒井忠次

それと信長の訃報を聴いた時の秀吉のうろたえぶり、竹中直人の秀吉は本当に人間味あふれる秀吉を演じています。この人間味がだんだん崩れていくのですが.. そこで官兵衛を演じる岡田准一がこの役を引き受ける時に最もいいたかった言葉をいいます

「ご武運が開けましたな」 「全てこの官兵衛におまかせください」

そして始まる世に名高い中国大返し
が始まります。

中国大返しは僅か10日にも満たない日程です。詳しく述べますが、まずその前に官兵衛と秀吉の家臣ーおそらくは石田三成もかなり手腕を発揮による見事な連携プレーを見せます。
官兵衛は、先駆けを走らせ秀吉の居城・姫路城まで帰路に沿っての松明や炊き出し、替え馬・渡し舟などを手配、徹底させました。また、織田家配下の武将たちが光秀側につかないように「信長は生きている」との情報を流す等の手まで打ちます。

6月4日;秀吉は講和を急ぐために毛利が受け入れやすい条件として備中・美作・伯耆の3か国の割譲と宗治の切腹が和睦条件として提示され、毛利側は清水宗治切腹には難色を示したものの、宗治自身がそれを了承。切腹して講和が成立

6月5日;官兵衛は毛利側の様子を見つつ、堤防南端を切ることで足守川の下流一帯が泥沼の状態にして毛利の進軍ができないようにしつつ秀吉軍が出発とありますが、毛利の『萩藩閥閲録』によると講和2日後に毛利軍が高松の陣を払って引き上げたのを確認してから出発したという説もあります。

6月7日;秀吉軍姫路城に到着。高松城から姫路まで約70キロあることを考えますと、当時の交通事情を考えれば2日はどうしてもかかることになり、6月5日に陣を引き払ったとすれば姫路到着は秀吉が姫路城に帰還したのは6月7日夕方とする見解が最も多いようです。実際にはいくつかの説がありますが、ここで2日休憩を取ります。

6月8日;休養にあてたこの日、秀吉は姫路城の蔵奉行を召集し、城内に備蓄してあった金銭・米穀の数量を調べさせ、これらを身分に応じて配下の将兵にことごとく分与したといわれます。これは姫路籠城ではなく光秀軍と一戦交えることを将兵に暗黙のうちに伝えた意味もあるようです。

6月9日;秀吉軍、姫路出発 この日に関しては殆どの史料が一致していますので間違いないでしょう。
秀吉軍は全軍を率いて姫路城を進発。この日は明石を経て、夜半には兵庫港(現在の神戸市兵庫区)近くに野営します。また、別働隊を組織して明石海峡より淡路島東岸に進軍させ(水軍もいたと思われます)、明智方にまわる可能性のある菅達長(菅平右衛門)の守る洲本城(兵庫県洲本市)を攻撃。菅氏は毛利氏に与力していたので、水軍による海上からの襲撃を警戒したものであり洲本城は9日のうちに落城します。

6月10日;秀吉軍、明石出発 兵庫へ

6月11日;秀吉軍、尼崎に到着 秀吉は大坂在陣中の丹羽長秀神戸信孝および有岡城兵庫県伊丹市)の城主池田恒興らに尼崎へ着陣したことを書面で伝えます。
6月12日;各軍合流し秀吉軍 計 4万 山崎に向かいます。(現在の京都府乙訓郡大山崎町
これに対して明智軍は1万5千ほどだったといわれます。

6月13日山崎の戦い

山崎の地にある山の名前から天王山の戦いとも呼ばれますが、プロ野球などで首位攻防戦の時に「天王山」と呼ばれるのはこれを語源とします。

大阪府側からみた天王山(東海道本線奥)

あとのことはご存じの通り、数に優る秀吉軍は明智軍を圧倒します。
また前にも書きましたが秀吉に優るとも劣らないといわれた名将の明智光秀にしては本能寺の変以降の戦いぶりは少し稚拙すぎるといわざるを得ません。

また電車も自動車もない時代になぜ僅か10日余りでこのようなことができたのか、現在でも驚愕に値します。
但し恐るべきほど早かったのは寧ろ備中高松から姫路までの時間といわれており、あとは冷静に分析すれば寧ろ慎重に着実な行軍に重点が置かれているという分析もあります。これは姫路までは、毛利方の追撃を免れるため何よりもスピードが重視されたのに対し、姫路からは光秀の放った伏兵などを警戒しながらの行軍であり、同時に同盟者を募り情報戦を繰り広げながらの行軍であったためといわれます。

いずれにせよ常人離れしたわざであったことは議論の余地がありません。

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