KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

軍師官兵衛ー実は残酷な兵糧攻め

軍師官兵衛、今日は官兵衛が軍師に復帰し足掛け二年かかった別所氏の三木城を落とすシーンがありました。世に云う「三木の干殺し」ですがこれに関しては後で述べます。

また三木城が落ちたところで小寺政職は御着城を捨てて中国地方へと逃げました。ドラマでは片岡鶴太郎扮する小寺政職(バカ殿を演じさせたら右に出る人はいませんね)が善助、太兵衛、九郎衛門につかまるシーンがありましたが、そのような記述は史料にはどこにもないことから、これはドラマのオリジナルだと思われます。実際には小寺政職は毛利領内を流浪の中備後の鞆(現在の広島県福山市鞆)に住み、天正10年(1582年)に死んだとされます。

長い年月の難儀の末、秀吉はようやく播磨を平定、信長は播磨16郡52万石と丹波13万石を羽柴秀吉に与え、それに伴い官兵衛も一万石の大名になりました。(大名とそうでないものの境目が一万石でした)ちなみに翌年にさらに一万石加増されます。

さてここで秀吉が多用した戦法で今後も出てくる兵糧攻めについて書きましょう。

ドラマではあまり述べられていませんでしたが、秀吉の別所氏三木城の攻略の兵糧攻めは元々竹中半兵衛と官兵衛の秀吉の進言によるものですが、特にこの三木城は「三木の干殺し」と後の世にいわれる凄まじいものでした。

兵糧攻めは一見、人を大量虐殺しない戦法というイメージがありますが、実はある意味もっと残酷な戦法ということができます。
秀吉は三木城を攻めるにあたり、中心として凡そ半径二キロの周辺を包囲し徹底した兵站線の遮断を行い、全ての城兵庶民を収納した諸籠もり状態の三木城は次第に兵糧が欠乏していきます。しかしご存じの通り荒木村重の信長への謀反一時遮断戦が途切れ瓦解しますが、村重から三木城に運び込まれた食料は思ったほど多くなかったようです。

しかし宇喜多直家が信長側につき、村重の有岡城が落城するとさすがに三木城への兵糧補給は事実上不可能になり、天正8年(1580年)1月、三木城内の食料はついに底をつき城内の兵は餓えに苦しみ大勢の餓死者を出しました。その様子はまさに地獄絵図だったといいます。この状態から後世から「三木の干殺し」と呼ばれるようになります。

別所長治は「一族一同切腹の上、城兵は惣赦免」という降伏条件を飲み十七日、妻子兄弟一同、自害して二年間に及ぶ三木城合戦は終わります。

兵糧攻めは直接血を流さないため、一見人道的な攻め方と勘違いする人も居ますが、兵糧攻めは冷酷無比な戦法で敵にとってはこれほど過酷な戦法はないかもしれません。

この後秀吉はこの「三木の干殺し」以上の凄まじい兵糧攻めの戦いを行うことになります。

それが世に云う鳥取の渇殺し」であらゆる兵糧攻めの中でももっとも凄まじい地獄絵となった戦いです。その模様はあまりにグロテスクなためここでは詳細は触れませんが、それは秀吉が毛利の一族吉川経家が守る鳥取城を攻略した時に起きました。

官兵衛は三木城の兵糧攻めが1年10ヶ月を要したため、もっと効率よく兵糧攻めを行うために事前に因幡にある米を1粒残らず、相場の倍値で買い占め、若狭へと運びました。さらに鳥取城の周辺に在る農村を襲い、ことごとく焼き払った。自宅を失った農民は鳥取城へ逃げ込み、鳥取城の人口は一気に膨れあがりました。このことによりただでさえ少ない兵糧を予想より大勢の人数で食いつぶす結果となり、「三木の干殺し」以上の凄惨な飢餓状態を引き起こしました。

鳥取城は毛利からの援軍を期待しましたが、羽柴秀吉が2万の大軍で海路も陸路も完全に封鎖しているため、毛利からの援軍は羽柴秀吉の軍に阻まれて鳥取城まで到達できず、鳥取城は完全に孤立し結果、この兵糧攻め四千人の餓死者が発生したといわれます。

このことからも兵糧攻めとは冷酷無比で決して人道的な作戦ではないということがおわかりいただけると思います。

官兵衛は秀吉の下の軍師としてその非人道的な作戦を続けていくことになります。