KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

竹中半兵衛重治について

軍師官兵衛ー官兵衛が有岡城の土牢に幽閉され、しかも村重の策略で村重に冷淡だった万見仙千代*注(重元)が討ち死にする一報を聞いて信長が官兵衛が寝返ったと思い込み、人質の松寿丸を殺すことを命令するという見ていて辛いシーンではありますが、そこで官兵衛の盟友の竹中半兵衛が機転をきかし松寿丸(後の黒田長政)を匿います。実際には秀吉に偽の首を進呈させたようですが、その偽の首の主が誰かはわかっていません。いずれにせよ半兵衛が何らかの機転をきかせて、松寿丸(後の黒田長政)を助けたのは事実のようです。

*注信長の小姓で文献には「仙千代」と書かれているため重元と名乗っていたかは不明。ドラマでは銃で撃たれたことになっていますが、実際には長槍で絶命しています。森蘭丸とともに信長の衆道の相手をしていたといわれます

この頃の信長はその暴君的な性質が表面化し、大名の人質を惨殺したり来週有岡城が開場のようですが、村重の正室だしを含む、荒木家重臣の家族を残酷に皆殺しにする等残忍性にブレーキがかからなくなってきています。ちなみに官兵衛が裏切らずに救出されたことを聞くとさすがにまずいと思ったのか「官兵衛に合わせる顔がない」と嘆いたものの、竹中半兵衛が松寿丸を隠し置いて無事であることを聞き、大層喜んだと伝えられます。この時自分が暴走しすぎているという自覚はあったのでしょうか?いずれにせよ本能寺の変まであと3年ですがこの状況をみますとあれが実際誰が黒幕であったかは別としてやはり本能寺の変は起こるべくして起きたような気がします。


竹中重治1544-1579
この竹中重治ー通称半兵衛は元々は美濃斉藤氏の家臣で天文13年(1544年)美濃国大野郡大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)城主・竹中重元の子として生まれています。斉藤氏の家臣として始め斎藤義龍そしてその後斎藤龍興に仕えましたが、官兵衛のドラマにも描かれていましたが酒色におぼれ、奸臣の方を重用したため斉藤家を離れ、浪人していたところを秀吉の「三顧の礼」で信長軍に加わりました。その際、信長ではなく秀吉の方に仕えるという形を取っていましたが、実際半兵衛は信長よりも秀吉の方を高く評価していたようです。

官兵衛と合わせて「両兵衛」といわれますが、実際官兵衛と半兵衛が共に秀吉配下で働いたのは3年にも満たない短い期間でしかもその中の一年は官兵衛が幽閉されている時期ですから実際にはこの2人の軍師が共に秀吉配下だったのは2年くらいしかありませんでした。しかも官兵衛が正式に秀吉旗下になるのは小寺氏が滅んでからですから、それを考えると「両兵衛」というのは後世の人の評価と考えていいでしょう。

この竹中半兵衛は肺結核を患っていたといわれており、播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れてしまいます。秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させましたが、すでに自らの死期を悟った半兵衛は武士ならば戦場で死にたいと秀吉に懇願して播磨三木の平井山秀吉本陣に戻り、陣中にて6月13日に死去します。

死にあたり三木城攻略にあたり、兵糧攻めの作戦を奏上しますが、これが後にいわれる「三木の千殺し」といわれる凄惨な戦いになります。一連の兵糧攻め、水攻めについてはまた別の機会に書きます。

秀吉は多くの有力の家臣を生前に失いますがその中の最初の一人がこの半兵衛になります。

さて来週荒木村重有岡城から正室だしを含む家族を見捨てて脱出、官兵衛ももうすぐ、助け出されるようですが、善助、九郎右衛門、太兵衛に助け出された官兵衛は半兵衛の機転で松寿丸が助け出されたことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受け嫡男の重門(しげかど)の元服の際には官兵衛が烏帽子親を務めました。この重門(しげかど)は松寿丸ー長政と幼友達となり関ヶ原の戦いでは合力して奮戦し、子孫は幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩出山6000石を安堵され代々継承し明治にまで至ります。また重門(しげかど)の庶子の一人は長政との縁により福岡藩黒田家に重臣として仕えます。

いずれにせよ来週有岡城開場ということになり、谷原章介扮する竹中半兵衛も来週で見納めのようですね。辛いシーンはまだ続きます。

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