KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

黒田官兵衛ー黒田如水について

さて、今日からNHKの今年の大河ドラマ軍師官兵衛」が始まりましたが、第一回の感想は次の日記に書くとしまして、まず黒田官兵衛孝高(よしたか)について予備知識として書いておきましょう。


文字通り福岡藩52万石の開祖であり、明治まで続いた黒田家の礎を築いた人です。

黒田官兵衛孝高(よしたか)は1546年備前国邑久郡福岡村で生まれたとされますが定かではありません。戦国大名小寺政職に仕え家老になり織田信長に臣従を進言、それを機に羽柴秀吉と意気投合します。

秀吉の人柄に惚れた官兵衛は秀吉と共に各地を転戦。同じく秀吉と行動を共にした竹中半兵衛(重治)と共に軍師となり活躍します。官兵衛と合せて「両兵衛」とも呼ばれた二人の軍師がいた当時の秀吉軍は秀吉の片腕の弟秀長も合わせ、私見では戦国でも最強の軍団の1つといってよかったと思います。

竹中半兵衛黒田官兵衛は同じ軍師でも全くタイプが違い、静の半兵衛、動の官兵衛とも言われますが、秀吉は適材適所で二人の軍師を使い分けていました。しかし竹中半兵衛は病魔に襲われ僅か35才で死去。その後秀吉軍の作戦の殆どを官兵衛が考えたともいわれます。気付かれた方も多いでしょうが、のちに有岡城に長期に渡って劣悪な環境で投獄されたために左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり歩くのに杖が必要になったそうです。

信長の本能寺の変での自刃の情報が来た時に、秀吉に「ご武運が開きましたな」と天下取りのチャンスを耳打ちしたのが官兵衛だとされていますが、その卓越した戦略の才能は逆に秀吉に警戒される原因にもなり、戦功の割には低い恩賞にとどまっていました。

その模様を坂口安吾が小説「二流の人」でも描いていますが、戦国では才能が有りすぎるとかえって警戒もされる、それほど厳しい社会ではあったんですが,,

警戒心を解く意味もあったのか、嫡男長政に家督を早めに譲り、自らは出家して如水(じょすい)と号しました。一方ではキリシタンにも帰依し、シメオンという洗礼名も持っています。これは秀吉の配下の高山右近小西行長の付き合いもあったようですが、秀吉がバテレン追放令を出した時にあっさりキリスト教を棄教しています。これも秀吉への恭順の意思を表したものともいえます。

晩年の秀吉がもはや昔の秀吉ではないことを悟ると、今度は急激に家康に近づきます。家康は官兵衛を重用するもやはり、警戒します。真偽のほどはわかりませんが、山岡荘八によると家康は官兵衛を危険な「病人」と評したようです。天下には3人「病人」がいたとして、一人は真田正幸、次は伊達正宗、そしてもう一人が官兵衛ー黒田如水だそうで、病名は「天下取り病」というそうです。

つまり天下は決して乱がなくなることはなく、必ず天下取りのチャンスがあるという夢をいつも追いかけているのがこの3人だと家康はいうのですが、果たして官兵衛はそういうところがあったのでしょうか?

そんなこともあってか、秀吉の天下統一や家康の天下取りの官兵衛の功績はとてつもなく大きかったのですが。その割に恩賞が少なかったのも事実で、関ヶ原の後の博多(福岡)52万石は長男の長政に与えたもので、実は如水に与えたものではありませんでした。その模様は先程の坂口安吾二流の人に描かれています。

でもおそらく今回の大河ドラマの脚本のベースは吉川英治の「黒田如水ではないか、と思われます。

官兵衛は関ヶ原の戦いのあと4年後に病死しますが、博多に移ってから町の名前を「福岡」に変えたいといったのは官兵衛です。これは自分の生まれ故郷の備前国邑久郡福岡村への思いがまだ強かったためと思われますが、その後商人の街、博多、武士の街福岡と別れ明治まで続きます。明治に入り街の名前を博多にするか福岡にするかを住民投票で決め、僅差で福岡になり現在に至ります。

家康が官兵衛ではなく長政に恩賞として与えた博多の街は商業が盛んな豊かな土地で黒田家は他藩から羨ましがられたようです。博多は既に奈良飛鳥時代から大都市であったという記録があり、現在知られている限りでは日本最古の大都市といっていい街です。今回の大河ドラマで大いに盛り上がることでしょう