KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー鹿鳴館の華と型破りの夫婦

八重の桜、本日は当ブログでもかねがね触れてきました大山巌と捨松の結婚の話

以前のこの記事ですが、関心が高いせいかものすごいアクセスがあり私も驚いています。
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20130811

まあたしかに明治のスーパーレデイ鹿鳴館の華にしては知名度が今ひとつという面があるために「こんなすごい女性が明治にいたの?」という驚きの反応が正直なところかもしれません。

もっとも今日の大山巌と捨松のエピソードは史実とは違い100%このドラマのオリジナルストーリーになっています。これにはいろんな理由があると思いますが、実際には説得にドラマではキャステイングされていない大山の従弟の西郷従道が動いていますし、大山と捨松のデートらしき姿は描かれていましたが、実際の会話は英語だったのですが、さすがに反町に英語のセリフをいわせるのはきついという事情もあったのでしょう。

しかし西洋のジェントルマンらしい作法を身につけた西洋かぶれといわれた大山巌、そして欧米育ちで西洋の価値観を身に付け英語、フランス語、ドイツ語に堪能だった捨松はまさに理想のカップルだったといえます。夫婦の会話が日本語でなかったこの夫婦は現代の日本でもおそらく浮いた存在になったでしょう。まして明治ではなおさらだったと思いますが、だからこそこの二人の絆は強く、大山巌は愛妻家として有名になり仕事も終わったらいつもまっすぐ帰宅していました。捨松にとって大山巌はまさに理想の夫だったといえる思います。

さて、鹿鳴館の華、の話がありましたので八重の桜では紹介されていませんがこの鹿鳴館で美貌でもう一人、海外の要人を惹きつけた女性を紹介しましょう。かのアーネスト・サトウ「美人で涼しい目とすばらしい眉だった」と言わしめた女性です。


陸奥亮子
それは後の「カミソリ」といわれるほど切れ者だった外務大臣陸奥宗光夫人の陸奥亮子でした。(写真)

この2人が鹿鳴館の主役となったわけですが、この2人は偶然ですが次のような共通点があります

1.いずれも後妻である
2.男(夫)の一目惚れ、猛烈なアタックでみそめられる
3.いずれも日本人離れした話術と社交術にたけていた
4.いずれも看護師として日本赤十字社に所属

夫の陸奥宗光(仙台伊達家の一族)は江戸時代の不平等条約の改正に成功した人物として名を残していますが、宗光は片時も妻と離れたくないといわんばかりに公務でも妻を連れ添っていて実質秘書のような存在でもありました。晩年結核で病床に伏してからは献身的に看病したようです。

捨松
捨松も陸奥亮子も夫にとても大切にされていて、至福の人生を送ったといえると思います。奇しくも二人共夫の死後3年後に後を追うように他界しています。

その意味では二人共男運があったんでしょうね。対照的に捨松の生涯の友である津田梅子はよい伴侶が見つけることができず生涯独身で通しました。

そして八重の桜新島八重も捨松や亮子同様、男運があったといえるでしょう。先夫の川崎尚之介も八重の男勝りな性格を愛していたようだし、新島襄にとっても八重は理想の妻でした。

しかし新島襄も現代の日本でさえ相当浮いた存在になりますから、明治ではなおさらだったと思います。ですから八重と襄の夫婦は相当周囲から奇異な目で見られていたのは想像に固くありません。しかし八重はそうした日本女性の枠に収まらない型破りな女性を好んだ二人の男性に出会う幸運に恵まれたといえます。

捨松と亮子は最愛の夫の後を追うように逝去しますが、新島八重は夫の死後数十年後の昭和の初期まで生きます。川崎尚之助新島襄もそういう八重のたくましさを愛したのかもしれません

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