KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー襄と行く会津と日本の民主主義の草分け板垣退助

八重の桜、今回は今まで八重の桜を見てきた人にとってはノスタルジーといいますか、かなり昔の思い出によるお涙頂戴的な話でした。うらさんとみねの再会とみねが嫁いだことを知ったうらのうれしそうな顔は確かにジーンと来ましたね。会津の不条理な運命と戦争の悲劇によって運命が翻弄された山本家。八重の桜の感情移入がより強くなりました。

しかし今日はなんといっても冒頭で自由民権運動創始者の一人の板垣退助岐阜事件であの有名な「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった言葉、ドラマでは土佐弁で「わしが死んでも、自由は死なんじゃきっ!!」の言葉を残した板垣退助について述べようと思います。


板垣退助(44歳頃)
日本の民主主義運動の草分け的指導者であり、この人の活動で政府は議会開設を確約せざるを得なくなったわけで、第二次大戦以前の民主主義は完全な形ではないにせよ、民主主義の母体を育んだ功績は大いに評価すべきでしょう。

板垣退助の家計は武田信玄の重臣、板垣信方の子孫の一族乾氏で元は乾退助と称し、戊辰戦争では新政府軍の一員として戦い会津戦争にも参加していたのはドラマで描かれたとおりです。
後、征韓論(これも先日の記事でも書きましたように、あくまで不平士族の不満をそらすための方便に過ぎず、初期の自由民権運動は不平士族による反乱の意味もありました)で敗れ下野します。
しかし西南戦争を起こした西郷と根本的にどこが違うかは今日のドラマでの板垣の発言に現れています。
「民に上と下が分かれているようでは国は滅びる。民が上と下一体となって国を動かさなくてはいけない」その手段としての自由民権だったのです。

これは現代でもいえることではないかと思います。昨今の日本はまた特権階級化した層(上)とそうでない層に別れつつあり、それをアベノミクスなどというまやかしによって本質がぼかされ、その上層階層と下層階層が分かれる世の中になりつつあります。これは国の発展にとって間違いなく悪いことです。

板垣退助はそれを行動で示した人間でした。自由党を立ち上げ、数々の弾圧で自由党を解党を余儀なくされるも、第1回衆議院議員総選挙には愛国公党(この名前だけ聞くと右翼政党に聞こえてしまいますが、これは板垣は民衆のための政治を愛国行為と考えた由の名前で現代日本の「愛国党」(笑)とは似てもにつかないものです)を立ち上げ、その後議会でも重きをなしました。そして1898年に大隈重信とともに日本最初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣(通称隈板[わいはん]内閣)します。とはいえこの当時の政党はまだ未熟だったためわずか4ヶ月で総辞職せざるを得ませんでした。

ちなみに板垣は自由民権運動の立場から華族制度には反対していたために授爵の勅を二度断っていたが、明治20年(1887年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、やむなく伯爵位を授爵しました。そのため衆議院議員となることはなく、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、意外なことですが実は議員には一度もなっていません。(1900年)大隈重信の主宰する立憲政友会の創立とともに政界を引退しました。

よく知られている肖像画です。昔100円札なるものに印刷されていました

わたし的にはこれは板垣を押さえ込む陰謀ではなかったかと考えます。実際政党は板垣の考えたような政治がなかなかできず、その意味で日本の民主主義が完全な形になるには、第二次大戦の敗戦まで待たねばなりませんでした。

ちなみに三顧之礼で不本意ながら伯爵位を授爵した板垣ですが、「一代華族論」という主張を行い、事実嫡男・鉾太郎は家督相続をせず、孫の守正が爵位を返上してその高潔な遺志を貫きました。

板垣退助は時代に翻弄されながらもあくまでも庶民のための政治家の信念を貫いた政治家でした。今こそこういう政治家が求められているのではないかと思います。

さて、最後で山川家の捨松が帰国し、日本語を殆ど忘れてしまったかのように描かれていましたが、いよいよこのブログでもご紹介した大山巌と捨松のカップル鹿鳴館の話が出てきます。

大山捨松鹿鳴館の華といわれた人物であり、どうやら津田梅子も出るようです。

来週は楽しみですね。これに関しては書き足りないほど書く事がありますのでまた例によって長文になります(笑)