八重の桜:西南戦争−維新三傑と武士の時代の終わり
八重の桜ーいよいよ今回は日本最後の内乱といっていい西南戦争を描きました。
かつての維新の盟友だった大久保利通、本音はあくまで西郷と戦いたくなかったはずですが、薩摩での不平士族の動きはとまらずとうとう薩摩軍が熊本城を包囲してしまいます。その動きをみて不本意ながら討伐軍を差し向ける大久保利通
旧会津藩士の山川浩、佐川官兵衛、そして新撰組から会津とともに戦った藤田五郎(斉藤一)は今こそ会津の汚名をはらす時と士気があがります。この元会津藩士それと旧幕府軍の士族が中心に編成された白兵戦部隊が抜刀隊で、西南戦争でもっとも勇敢にたたかい、西南戦争最大の激戦地田原坂(たばるざか)で大きな戦果を揚げます。
かつて賊軍と呼ばれた会津軍が皮肉なことに官軍として薩摩軍と戦う、という十年前の戊辰戦争とはある意味あべこべな状況になり、そうしたこともあって特に元会津藩士の活躍は目覚ましく山川浩は西南戦争後陸軍少将に昇進します。そして佐川官兵衛の壮絶な戦死。戦場で死ぬことを望んでいた官兵衛のうれしそうな死に顔ー何か象徴的な感じがします
私の考え方ではこの西南戦争は単なる内乱ではなく歴史上大きな意味があると考えています。
ひとこでいえば「近世=武士の時代の終わり」そして本当の近代の始まり。
ということができるからです。
映画「ラストサムライ」でも「西南の役」という史実は記していなかったものの、渡辺謙扮する勝元盛次の反乱の日時は1877年、明らかに西南戦争を念頭に置いていました。そしてまさしく西南戦争は武士の時代の終わりを示した戦争だったのです。
そもそも西郷が下野した明治六年政変は「征韓論」が元といわれていますが、実は西郷は朝鮮半島に対して武力行使を主張したことは一度もありません。少なくともこの時の「征韓論」は後の韓国併合の時の帝国主義的(但し初代総督の伊藤博文は最近の資料から恒久的に韓国を併合する意図はなく、国内が安定してから独立させる意向だったようです。山縣と当時首相の桂太郎はそれと真逆の考え)なものとは本質的に全く別のものであるということを押さえておかなければなりません。
明治政府による近代化政策による廃藩置県、版籍奉還により各藩の藩士は事実上「全員解雇」と同じ状態になりました。現代でいえば「世の中の仕組みを変えますので、日本のすべての会社を倒産ー解散します」といっているのと同じです。
それにより「既得権益」を奪われた士族に不満が当然のことながら広がります。士族の多くは軍人や警察官になるものもいましたが、当然就職もままならず食い扶持に困る人間も少なくありませんでした。明治の初期、その不満は既に爆発寸前であったことは想像に難くありません。
実は「征韓論」というのはその不平士族の目を外に向けるための方便であったことは明らかです。これは最近の中国が尖閣問題(ちなみにベトナムやフィリピンでも中国は日本の尖閣と同じようなことをしています)や反日運動、韓国国内の反日運動もそうですが、これらはいずれも国内の不満勢力を外に向け、国内の問題から目をそらさせるためのものです。政治権力が国内の問題から目をそらさせるための常套手段といってもいいでしょう。
しかしそれらは国内問題をある意味誤魔化す意図も考えられます。しかし当時の明治政府の大久保、木戸、岩倉はそういうゴマカシを良しとしなかったというのもありますし、何よりもこの当時の日本の状況を見れば外国と戦争するどころの話ではない。ということで「征韓論」をおさえつけます。
そのため国内の不平士族は収まるどころか増大してしまいます。
そして近代化を急ぐ明治政府は結果としてその不平士族に火に油を注ぐ政策を取ります。
それが世に有名な廃刀令。つまり武士の魂の刀をもはやもってはいかん、と通達します。そしてドラマには描かれませんでしたが、個人的には金禄公債証書発行条例が一番大きかったような気がします。
意外に知られていないのですが、金禄公債証書発行条例というのは従来の武士の禄高(たとえば1000石という禄は江戸時代は米で支払われていましたが)を債権に変えて何年越しで償還する、つまりわかりやすくいいますとあなたたちの給料を債権に変えます。一辺に支払うのは無理なので何年かに分けて支払うというものです。しかも当時の明治政府は金がありませんから、その支払いは5年間停止、6年目から支払うというもので最終的には30年償還にかかったようです。つまり給料を5年間払わないといきなりいわれるわけです。そりゃだれでもびっくりします
武士の魂の刀を取り上げられ、給料も取り上げられた状況、そりゃ反乱が起きるのも無理はない、ということで1876年に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で「萩の乱」と立て続けに起きるわけです。
そして薩摩の西南戦争へ、さて元々薩摩藩は長州とならんで維新の原動力で幕府を倒したというイメージがありますが、実は藩論は必ずしも倒幕や開国ではありませんでした。実は西郷、大久保、そして藩論をまとめた家老の小松帯刀(こまつたてわき)などはややもすれば少数派になりかねなかった。つまり薩摩の維新の原動力は実は薄氷の上でなりたっていたという点を抑えていかねばなりません。つまり維新や近代化の概念をきちんと理解していたのは薩摩藩でも少なかった。ということができます。だから西南戦争が起きたのです。
先日の西郷と大山弥助(巌)のやりとりでも西郷は最初から死ぬつもりでいたことは想像に難くありません。それがドラマの中で西郷が語っていた言葉
「内乱は二度と起きもはん。
おいが抱いていき申す 」
不平士族の憎しみ、悲しみを自分が一手に引き受け人柱になる、それが西郷の意図だったようです。
ちなみに「西郷隆盛」というのは本当は西郷の父親の名前で本当は西郷隆永といいます。写真嫌いだったため本当の写真は現存せず、
この有名な肖像画はイタリア人肖像画家のキヨッソーネのもので、実際には従弟の大山巌と弟の従道を足して二で割るとこういう顔になるそうです
「他に道はなかったのか..」
戦争が終わって西郷の訃報を聞いて無念の表情を示す覚馬。
残念です。時代が変遷するときにどうしても血の代償が出てしまう。
それが歴史でもあります。
そして時を同じくして維新三傑の一人の木戸孝允も病死。覚馬の手を握って「西郷、たいがいにせんかぁ」といっていましたが、実際の史実では大久保が見舞いに行った時に、うわごとで大久保にこれを云ったのが最後といわれます。死因はわかっていませんが、「心血管障害」といわれますが脳溢血ですかね? 当時は現代のようなカルテがありませんでしたので、よくわかりません。
そして西南戦争の次の年、大久保は暗殺されます。維新三傑で生きて憲法や条約改正を見たものはおりませんでした。
というわけでここで武士の時代が終わります。
日本の近代は1853年の黒船来航に武士の時代ー近世の崩壊が始まり、1877年の西南戦争で約四半世紀間で近世から完全に近代に移った、といってもいいでしょう。そのために日本はあまりにも多くの人材の面での犠牲を払ってしまいました。