KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

現代日本人より外国語が堪能だった幕末明治の人たち

今更云うまでもありませんが日本人は英語が苦手な人が多いです。いや、英語に限らず外国語を覚えるのが全般的に苦手です。
なぜそうなのか?
これは日本が鎖国を250年以上していたからだ、などという人がいます。私もついこの間までそう思っていました。

しかし最近必ずしもそうではないことがわかってきました。

実は意外に知られていませんが幕末から明治の人間には語学に堪能な人間が多かったという事実をご存じでしょうか?

一昨日大山巌とその妻捨松が夫婦の会話を日本語ではなく英語やフランス語を中心に行っていたという話をしましたが...
初代の総理大臣の東博や数々の大臣を務めた井上馨(聞多)は英語に堪能で共に通訳不要で海外の要人と話せましたし、大久保利通岩倉使節団に同行していくうちにドイツ語を日常会話程度は話せるようになったといいます。

日露戦争軍神に祭り上げられた広瀬大佐はロシア語は母国語同様に話せ、他に英語やドイツ語も話せたようです。坂の上の雲の主役の秋山真之は英語、兄の好古はフランス語が母国語同様に話せたようです。(好古は中国語も少し話せたようです)

上記の人たちはいずれも数年しか現地にいないのにそれだけの会話力を身に着けています。しかも当たり前ですが彼らが外国にいる時にはまだ日本語と英語やフランス語の辞書など存在しません。

現代の日本人でおそらく数年滞在しただけで流暢に現地の言葉を話せるようになれる人はたぶんそれほど多くはないでしょう、

それを考えると現代の日本人が中学(最近は小学校から)から英語の授業があるのに「英語」すらなかなかマスターできない、というのは何なんでしょうか? 案外明治人の実情を研究すると答えが出てくるかもしれません。

ここで幕末から明治にかけての日本人と現代の日本人の状況を比較するうちにいくつか言葉に関して環境の違いがあることがわかりました。

まず第一の点
1.方言ーつまり幕末から明治には「共通語」はなかった。

まず江戸時代の日本は「藩」という単位の実質的な連邦国家だったという点を抑えなければなりません。つまり同じ日本語なのに「藩」ごとに全く違う方言をしゃべる、これが明治の現実でした。

一昨日書きました大山巌とその妻捨松の「デート」で薩摩弁丸出しの大山と会津弁の捨松(そもそもこの時日本語自体もかなり怪しかったようです)はお互いの言葉を最初は理解できず、英語やフランス語の会話で話がはずみめでたく結婚したという話がありますが、実際幕末から明治までは出身地が違うと、日本語ですら満足にコミュニケーションが取れないほど、方言による言葉の違いが大きかったようです。

いわゆる「共通語」というのが体系だって作られたのは戦後の1949年の国立国語研究所が定義したものなので、比較的最近のことなんですね。

つまり幕末から明治の人間はそもそも地方の言葉(方言)以外の言葉を学ぶことから始めざるを得なかったという事情もあります。

第二の点
2.辞書等の「ツール」がないに等しい。

現代は英語だろうがフランス語だろうがドイツ語だろうが、よっぽど特殊な言葉でない限り本屋に行けば辞書を探すことができます。
それから英会話その他のさまざまな教材、教室、CD 等々ツールがあふれています。

しかしこれだけ多くのツールがあるにも関わらず日本人の平均の語学力が上達したか、といわれると残念ながら疑問だといわざるを得ないでしょう。

そして幕末から明治で外国に行った日本人には勿論そんなツールはおろか辞書すらありませんでした。

実は私はだからこそ幕末から明治の人間はかえって語学が上達したのではないか、とも考えます。

ツールがないからこそ、とにかく現地の人とコミュニケーションを取る努力をしなくてはならない、そのためにはブロークンでもいい、とにかく現地の人がしゃべるように自分も会話をする努力をしようと..

不思議なことにツールがないからこそ、さまざまな創意工夫が生まれそれが結果的に上達に結び付くのではないか、と考えます。

それを考えると現代はツールが多すぎる、のかもしれません。

便利さというのはある意味麻薬ですが、便利というのはある意味人間の能力を減退させる面もあるのではないか、とも思います。
最近はネットで情報化社会、コミュニケーションツールが増えてはいますが、反面かえって現代人のコミュニケーションを取る能力は低下しているのを感じます。それを考えると「情報化社会」というものが本当に人類にとってよいことなのか? という根本的な問題にぶち当たります。

そして最後の点
3.外国文化を吸収しなければならないというひっ迫感。

現代と違い幕末から明治の19世紀は帝国主義の時代。日本がいつ外国の植民地にされるか、という危機感は相当なものでした。そのためまず外国の文化、文明を吸収し諸外国に追いつき追い越さなければならない、という切羽詰まった緊張感は現代人と比べかなりのものだったという事情があります。

つまり外国の文化を必死に吸収しようとした、という点があります。

つまり外国語を絶対に覚えなければならない、という意志が並大抵でないほど強かった

勿論現代の日本人が意思が弱いなどというつもりはありませんが、やはり「外国語を覚えなければならない」という強迫観念はもしかしたら明治の人間の方が強いかもしれません。なぜなら「敵を知らなければ敵にやられるかもしれない」という恐怖感があったためと思われます。

現代はネットなどもありますし、外国の情報など簡単に手に入るため明治の人間がそれに対してひっ迫感を感じることを不思議に思うかもしれません。

しかし先ほどの話ではありませんが、情報化というものが逆に情報に対する感度を低下させている、という面はあるかもしれません。

マスコミを始めネットでもグローバル化などということが叫ばれていますが、グローバル化とは一体何なのかについてきちんと理解している人は少ないような気がします。

これからTPPで間違いなく日本人の生活は変わります。それも間違いなく根底から変わります。しかしマスコミを始めそのことを詳細に報道している報道機関は殆ど見当たりません。TPPはある意味、現代の帝国主義の変形といってもいいのです。(それも「敵」は特定の国ではありません。世界の1%に過ぎない「グローバル企業」という怪物です)

さて、幕末から明治の人間が現代人より語学が堪能だったことを述べましたが、しかし彼らは簡単に語学を取得したわけではありません。

そこで語学の能力で結果的に意中の女性を射止めた大山巌に話を戻しましょう。

大山巌は最終的には英語、ドイツ語、フランス語の三か国語を流暢に話せるようになりました。

しかし最初から語学が得意だったわけではありません。実は涙ぐましい努力をしてきたのです。

大山は明治3年に普仏戦争の観戦武官として渡欧しましたがその時は実は外国語が全く出来ませんでした。 並みの現代人ならそこであっさり外国語を覚えることを諦めてしまうかもしれません。

しかし大山は違いました。会話ができなかったことがよほどこたえたのか帰国するや陸軍大佐兼兵部権大丞の要職を辞して、4年間スイスのジュネーブに語学留学します。しかもあえて日本人が一人もいないジュネーブを選び、しかも陸軍学校などに籍を置かず、最後まで下宿住まいで勉強しました。かなり悪戦苦闘したらしく「唯一人窓辺でフランス語入門書を読んでいるが、何のことやら全く分からない。晩年になってから余計な意気込みだったかと今更後悔するしかない。遠くから笑ってください。」山縣有朋に書いています。

そうして途方にくれていた大山はロシア生まれの細菌学者メチニコフより「日本語を教えてほしい」と頼まれます。ここでツールがない時代の創意工夫が行われます。つまり大山が、メーチニコフに日本語を教え、メーチニコフが大山にフランス語を教えるという方法でフランス語を取得していったわけです。

そうしたツールがない時代の創意工夫によって大山は三か国語を結果としてマスターしました。結果的にそれが最愛の妻を得ることにつながったようです。

晩年の大山巌と捨松
大山巌と捨松はおしどり夫婦として有名だったらしく、しかも夫婦の会話は主に英語とフランス語、「共通語」というものがない時代の産物とはいえ、明治時代の「グローバル夫婦」といっていいかもしれません。

勿論外国語を覚えれば「グローバル」というわけではありませんが、まず出発点はそこから、といっていいと思います。

なぜ私がマルチリンガルに関心があるかといいますと、私の人生で語学の体験で一番カルチャーショックを覚えたベルギーでの体験からです。この国は驚くなかれマルチリンガルが当たり前の国です。殆どの人が3か国以上の言語を話します。

何せ初対面の会話が”Quelle Longue avez vous parlez?(どの言葉で話しましょうか?)" その時"Je suis desole, L'anglais s'il vous plait"(ごめんなさい、英語でお願いします)というと快く英語で話してくれます。フランス人とそこが大きく違うんですね。しかも結構上手な英語で話すからおどろきます。

グローバリズムとかいろいろありますが、TPPに入ろうが入るまいが国に関係なくモノもコンテンツも動いていき、その過程で嫌が上でも外国語に接する機会が増えるということです。私などもこんな零細企業を運営していますが、今日本にいながら英語でメールのやりとりをすることがあります。この流れは確かに誰にも止められないですね。

そういう事情を考えなおかつ先ほどの明治の軍人や政治家の語学力を見るとやはり、今の日本の語学教育はやはりどこか根本的におかしいところがあるといわざるを得ないわけですね。

今政府の対策でTOEICを義務化させようなどという話があるようですが、何か視点がずれてように思います。別にTOEICが悪い制度だとは思いませんが、絶対的な資格ともいえないのではないかと思います。

語学教育とかに取り組んでいる方も今日私が書いた記事をきちんと分析して今の日本の語学教育のどこが間違っているのかを考えてほしいものです。

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