KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー自慢の娘 会津藩士たちのその後(ネタバレ)

八重の桜、今日もまだ会津戦争(笑)いやー長いですね。戦争のシーンにこれだけ時間をかけている大河ドラマはここしばらくないんじゃないでしょうか?

それにしても同じNHKなので連ドラのあまちゃんとの格差がありすぎる(笑) 日本はやはり格差社会になっているんでしょうね

来週はいよいよ鶴ヶ城開城」ですので来週いよいよ会津戦争終結します。その時にすでに予告した会津戦争の戦後処理で「定説」となっている件についてあえて異を唱える記事を書きます。

八重の活躍は容保の目に留まり、召し出されて不発弾の処理方法の説明を行いますが、生兵法はケガの元、山川大蔵(浩)の妻のお登勢さんが砲丸の信管の冷却に失敗し爆死してしまいます。(これも史実通り)

さて今日は大垣屋清八が岩倉具視に覚馬の管見を渡すシーンがありました。実際には最初に管見を読んだのはおそらく西郷吉之助薩摩藩家老の小松帯刀といわれており、たぶん西郷経由で岩倉に行ったというのが史実だろうと思われます。

この管見が覚馬や八重の運命を大きく変え後半につながっていきますが、この感じですと来週鶴ヶ城開城」で最終週の28日がその後始末ということになると思います。

そんな関係ですが少々気が早いですが、会津戦争で生き残った会津藩士のその後について軽く触れます。
ネタバレの部分がありますので、知りたくない人は読まないでください

ネ  タ  バ  レ
↓       ↓       ↓
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以下今回フィーチャーされた二人の会津藩士について述べます。いずれも他藩に名が知られた名士です

まずが容保と対立し会津を去らざるを得なくなった会津藩家老の西郷頼母、妻娘全て自刃してしまいたった一人生き残った嫡男とともに会津を去ります。悲惨ですがこれは容保の頼母を死なせないための措置でもありました。その後容保が日光東照宮宮司となると、頼母は再会し禰宜となります。


会津戦争終了後、箱館榎本武揚と合流し、函館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなりました。明治3年(1870年)、西郷家は藩祖の保科正之の保科氏(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母と名乗ります。

その後謹申学舎塾の塾長から都都古別神社の宮司のあと先ほどのように日光東照宮で容保と合流した禰宜となり、最後は故郷の会津若松に戻ります。
さて、ここが耳より情報ですが、嫡男が病死のあと甥の志田四郎を養子にしますが、この志田四郎は西郷四郎として柔道家として講道館に入門します。姿三四郎のモデルとなった人物といわれ、講道館四天王の一人として知られるようになります。


さてもう一人の佐川官兵衛(写真中央)ですが容保の酒に酔い、朝駆けの計画に遅れるという大失態を犯してしまい敗北を喫してしまいますが、(それでも「寝かしてやれ」といたわる容保、会津戦争がなかったら本当に名君として語り継がれたろうに)後に少数で新政府軍を破り、鶴ヶ城への糧道を確保する離れ業も演じます。元々猛将として知られた官兵衛は会津戦争で最後まで抵抗しましたが、容保の降伏でやむなく戦後謹慎します。

戦争後一度は東北下北半島斗南藩に他藩士と行動を共にしますが、廃藩置県後警視庁に出仕します。これは会津藩に限らず廃藩置県後多くの旧藩士は食い扶持を探すため警察か軍隊かのいずれかに出仕しているケースが多くいので特に珍しいことではありません。後に西南戦争で豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍し熊本で壮絶な戦死を遂げます。

さて、長かった戊辰戦争会津戦争も来週でひとまず終わります。第二部は8月スタートでしょうね。第二部はたぶん「同じドラマか?」といいたくなるくらい雰囲気はガラッと変わるはずです。

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