KyojiOhnoのブログ

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー山本覚馬の人生を変えた長崎とカールレーマン

八重の桜 孝明天皇崩御で幕府の公武合体派の勢いが削がれ、倒幕派が勢いを盛り返してくる様が描かれていまして、ようやく帰国が許されるかと思った松平容保慶喜の強引な要請で流れてしまいます。それにしても慶喜「信頼できない性格」が小泉の息子がやると本当にリアルに感じますね。まあそんな孝太郎の父親に日本国民全体が騙されてしまったわけですが.. いやはや。という感じですな。

さて、そんな折に武器を買い付けという密命を帯びた覚馬が長崎に来ました。当時の日本の最先端の設備が整った長崎でも覚馬の白内障はもはや手遅れであることが告がれます。焦りで取り乱す覚馬。

一時はグラバー邸を訪ねますが(今回もグラバーらしき人は写ってましたが、やはり龍馬同様グラバーさんは出ませんでしたね)すでに長州や薩摩が出入りしていました。覚馬はこの時に薩長が秘密時に同盟を結んでいることに気づきます。

そして尋ねた人物はカール レーマン

さて正直私もこの人についてはよく知りませんでした。実際には同志社の関係でのちに間違いなく出てくるであろう弟のルドルフレーマンの兄にあたります。詳しくは「ネタバレ」より下をご覧ください

この長崎訪問は山本覚馬にとってとてつもなく貴重な日々でした。

はっきりいってこの長崎訪問があったからこそ、日本史上重要な政策提言である「菅見(かんけん)」を始め数々な先駆者的な政策を京都で行うことができた、といっても過言ではありません。

まさしく長崎訪問あっての山本覚馬だったのです。

このカール レーマン、明治以後にも覚馬と再会しますので間違いなく出てきますが、レーマンとの交友関係が覚馬にとって後々大きな意味を持つようになります。
ひとことでいえば今回は殆ど明治以後の覚馬の今後の予告編といっても過言ではない内容でした。

さて、レーマンについては私もよく知らなかったので調べました (^^)

カール レーマンは一言でいえば「もう一人のグラバー」といってもいいでしょう。

カール レーマンについての資料は少ないです。英語ですが幕末当時の出島に出入りしていた外国商人についての記述があります。

・Dejima Bios
http://www.nfs.nias.ac.jp/page042.html

アルファベット順に上から並んでいるのでレーマンさんの記述は少しスクロールしないと出ませんが..
長いので概略だけ日本語で書きます。

KARL [CARL] LEHMANN (1831-1874)
1831年ドイツ 旧プロイセンのオルデンベルグに生まれる(現在はポーランド領)
若い頃から叔父のいるアメリカのボルチモアを含め貿易に従事
1861年にオランダの東インド会社との雇用契約から長崎に定住。
グラバーさんもそうでしたが、レーマンさんも「おとき」(大滝?)という日本人女性と同棲
1864年に娘が生まれ今回出てきたハーフの女の子の名前はルイーズ シャルロット オトキ(オオタキ?) レーマンといい覚馬が会ったときは3歳のはずです。 

グラバーとレーマンはどちらも武器商人ではありますが、前者が薩摩長州、そしてご存じ坂本龍馬海援隊とのつきあいで有名でしたが、レーマン会津桑名藩紀州藩等の徳川方との取引が多かったようです。

グラバーさんと比べ今一つ知名度がないのは、「勝ち組」に入らなかったからだろうと思いますね。

しかし後に「日本のジャンヌダルクといわれる八重の愛用のスペンサー銃がこのレーマンから譲り受けたものだとは知りませんでした。こうしてみるとだんだんドラマ前半の佳境のお膳立てができてきます。

さて、おそらく今後の「ネタバレ」になってしまいますので覚馬とレーマンの今後についてまだ知りたくない方はここで読むのをやめて下さい。



ね     た    ば     れ
↓     ↓     ↓     ↓      ↓     ↓
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さて、このレーマンさん 「もう一人のグラバー」と書きましたが、グラバーさん同様幕末だけでなく、明治の日本に大きな貢献をした人でした。
このレーマンさんとその相棒のオスカーハルトマンによるレーマン・ハルトマン商会というのが覚馬の人生にとって重要な意味を持ちます。


さて、このレーマンさん。覚馬が戊申戦争以後許されたあとにまた再会します。

岩倉具視の計らいで京都の顧問に就任した山本覚馬レーマンが大阪で貿易会社レーマン・ハルトマン商会」を経営している事を知ると、カール・レーマンに協力を要請します。そしてこれが「蛤御門の変」で発生した「どんどん焼け」の大火事で荒廃した京都の再生の大きく寄与します。

カールレーマンさんは弟のルドルフ・レーマンを紹介します。この人は機械工学の技師で造船所で川蒸気船を製造する仕事をしていました。そして覚馬の要請により教師として京都府に雇われ、洋学所や京都中学校で、数学や語学を教えるようになります。このルドルフさん。日本初の和独辞典も作った人といわれます。

このカールとルドルフのレーマン兄弟は様々な分野で山本覚馬に協力し、京都府の発展に貢献しました。レーマンさんなしに覚馬の数々の振興策は成し遂げられなかったといっていいでしょう。

このレーマン兄弟はともに日本人女性との間に子供をもうけました。またレーマンさんの相棒のオスカーハルトマンさんも日本人女性との間にサダキチ・ハルトマンが生まれ後に著名な美術評論家として活躍します。

明治の近代化にはグラバーやレーマンのような外国人も大きな貢献をし、それがあってこそ明治維新という大業が成就したといってもいいでしょう。

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